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更新日:2013年3月1日 ページID:005155
被爆当時、電車軌道は浦上駅前電停から長崎医科大学附属医院(現在の長崎大学医学部附属病院)の下を通り、 浜口町電停に出てから大橋の終点まで続いていた。浜口町電停から下の川電停までは民家が軒を並べ、道路との高 低差のためにこの石垣が築かれていた。
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、爆心地から南へ約400メートルの距離にあった浜口町電停付近は原子爆 弾のさく裂により壊滅状態となり、浜口町電停から爆心地に近い松山町電停の間では4台の電車が被爆し、多数の 乗客や乗務員が亡くなられた。
その後、2000年(平成12年)に国道206号線の拡幅工事のため石垣の一部がこの地に移設された。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、 この銘板を設置する。
2003年(平成15年)3月 長崎市(原爆資料館)
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