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更新日:2013年3月1日 ページID:005165
眼下の松山町とともにもっとも爆心地に近かったここ浜口町の北部(現平野町)一帯は、かつては高台の 閑静な高級住宅地であった。1945年(昭和20年)8月9日も、暑い夏の陽射しを受けて、キョウチクトウ の赤い花が揺れ、クマゼミの声がこだましていた。朝早く出されていた空襲警報も解除になり、家を飛び 出した子供たちは喜んで近くの森でセミ取りに熱中していた。
同日午前11時2分。この町の500メートル上空で一発の原子爆弾が炸裂し、強烈な熱線と放射線と爆風 がふりそそいだ。
原子爆弾炸裂後にできた火球の中心温度は摂氏数百万度に達するという、自然界では考えられない人間を 抹殺する核兵器の人類史上2番目の使用であった。
何の罪もない子供たちは母親を捜し求める声もなく息絶え、地上の建物は火の海に包まれ、あらゆる生命 は灰となって散った。数時間後に到着した救援隊の接近を拒むほど地上は焦熱地獄と化していた。
この碑銘板の原画は、この丘のすぐ近くにあった清田家で、たった一人生き残った清田寿美子さんの話し にもとづき島田鶴彦氏が描いたもので、当時の惨状は次のようであった。「父母の死体も炭のように真黒く こげて、さわると肉の部分はまるで綿の燃えかすのようにバラバラとくずれてしまった…」。
あらためてここに被爆死された方々のご冥福を祈るとともに、これらの悲惨な記憶をとどめおくために、 この地に碑を設置するものである。
昭和61年8月 長崎市(長崎国際文化会館)
昭和二十年八月九日午前十一時二分、アメリカの原子爆弾が長崎におとされた。清田家は浜口町にあったが、その上空5百米でさく裂した。
父母妹三人は、殆ど瞬間的に爆死したようで、いずれも炭のように焦げてしまつていた。
父は台所にうつぶせに倒れ母は部屋のほうで座ったままの姿勢で、妹は防空壕の中で横向きに死んでいた。
場所 長崎市浜口北部一八四
父 清田藤祐 享年六十六才
母 清田トネ 享年六十二才
妹 清田美智子 享年十三才
昭和五十年八月九日 寿美子記す
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