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更新日:2013年3月1日 ページID:005168
生命を愛しむ新しき年の始めに
しみじみとわが生命愛しむ
原爆の傷痕胸にみちしまま
絶望と貧苦の中でたえだえに十年
げにも生きて来しか
悲しみと苦悩の十字架をおい
ほそぼそと生命かたむけ
生きて来しこの現実を
奇蹟の思いでかえりみる
”吾尚生きてありここに座し
一切を観ずふきちぎれた魂は
未定の生を夢み一片の我が生命を
愛しむ。
福田須磨子 原子野より
福田須磨子。大正十一年三月二十三日、長崎市浜口町四三番地に生まれる。
昭和二十年八月九日長崎男子師範学校会計課に勤務中、被爆。
昭和三十年被爆後遺による紅斑症発病。以来入退院をくり返す。被爆への怨念と平和の希求闘いの生涯をこめた「われなお生きてあり」を完成。第八回田村俊子賞を受賞。怨の女か、愛の女か、須磨子は或るいは、火の玉となり或るいは阿修羅となり、戦争への危機と核権力に対して抵抗しつづけた。
昭和四十九年四月二日 死去五十二才 秋月辰一郎 撰文
一九四五年八月九日
午前十一時二分、第二次世界大戦末期、世界第二の原子爆弾が広島についでこの地、長崎の上空に 炸裂した。
一瞬に死傷者は十数万人に達し生存者はその後三十年にわたって原爆後遺症と生活苦に伸銀呻吟 しつづけた。福田須磨子もその一人である。
しかし彼女は黙することなく生涯かけて原爆の非人道性を訴えつづけた。この碑は福田須磨子の不屈の生涯をしのび、あわせて世界の恒久平和を祈念するために全国の有志九百二十名の御芳志をも って建立するものである。
一九七五年八月二日 詩碑建立委員会
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