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更新日:2013年3月1日 ページID:005176
未来を信じ、未来に生きる若者として、戦火の中で傷つき苦しめられたアジアの人々に、 そして、平和を愛し戦争のない世界を願うすべての人々にこの像を捧げたい。
戦後50年の春、「悲しき別れ一荼毘」に描かれた少女の一人、福留美奈子ちゃんの 母、志なさん(93才 京都府綾部市在住)の、「長崎に平和を祈るお地蔵さんをたてたい。」 という願いをつづった一通の手紙が綾部中学校生徒会に届いた。原爆にわが子を奪われた母 の思いを祈り鶴に込めて、ヒロシマへ修学旅行に行く私たちに託し続けてこられたおばあち ゃん。過去の歴史と現実について学んできた私たちの胸に、おばあちゃんの願いは強く響いた。 その願いをかなえたいと、中高生の仲間、父母、先生、地域の人々が集まり「長崎にふりそで の少女像をつくる会」が生まれ、募金活動が始まった。「像をつくって終わるのではなく、そ こから世界へ平和を考える輪を広げたい。」そんな私たちの思いに共感して下さった全国の方 々の支援と、像制作にたずさわった多くの方々の熱意と努力によって、像は完成した。核兵器 のない自由で平和な世界を願い、ナガサキから世界の青空へと舞い上がる二人の少女によって 人々の思いは一つに結ばれた。
この像がつくられた道のりこそ、平和な未来をつくる真実の道だと私たちは確信する。
1996年3月31日 長崎にふりそでの少女像をつくる会
けが人や死体には驚かないようになっていた私が、忘れ得ない情景を見たのは8月19日のこと でした。爆心地より約4キロメートル、滑石の打坂というところの畑の中で、2人の少女が積み上げられた 木材の上に寝かせてありました。10歳前後で、私は姉妹であろうと思っておりました。あの頃 見たこともない立派な着物を2人とも着ており、先ずその着物のあまりの美しさに私は我を忘れ て見とれていました。顔をみるとどこにも傷の跡は見られず、薄化粧がしてあり、その顔の美し さにも息をのんで見ました。死んではじめて着せられた晴着、死んではじめてされた化粧、周囲 の心遣いが逆に何とも哀れでなりませんでした。何と悲しいことであろうかと思いました。私に とっては強烈に印象に残った情景であり、その悲しい物語を残そうと、あの時とても美しい着物 は表現できませんでしたが、29年後1枚の絵に描きました。
松添 博
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