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更新日:2024年11月14日 ページID:038673
「外海の大野集落」は、潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのかを示す4つの集落のうちの一つです。
禁教期の大野集落の潜伏キリシタンは、少なくとも表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となりました。
彼らは、同時に神社に自分たちのキリスト教の信仰対象をひそかにまつって拝むことによって信仰を実践し続けました。
この地域からは多くの潜伏キリシタンの共同体が五島列島などの長崎の離島部へと移住しました。
解禁後はカトリックに復帰し、外海の出津集落にある出津教会堂に通っていました。
その後、大野集落の中心に教会堂を建てたことにより、彼らの潜伏は終わりを迎えました。
大野神社は、1671年に再興、遷宮がなされたと記録があることから分かるように禁教期を通じて集落に存在した神社です。
入口の鳥居は、1835年に建立されました。
大野集落の3つの神社の中でも、大野神社は集落全体の守り神を祀っていたため最も社格が高く、代々庄屋が神主を務めていました。
集落民の大多数は大野神社の氏子として記帳されており、大野集落の潜伏キリシタンも神道の信者を装っていたことが伺えます。
また、潜伏キリシタンは、より身近な存在であった門神社と辻神社でも祈りを捧げましまた。
門神社にはもともと様々な神が祀られていました。
その中に1637年の島原・天草一揆の際に大野に逃れてきた本田敏光というキリシタンも含まれていました。
1681年から1861年までの大村藩の調査記録に辻神社のことが書かれています。
辻部落(キリスト教が禁止されたときから存在した部落)の人々が代々この神社を守ってきました。
古来の自然信仰に基づく山の神を祀った神社ですが、潜伏キリシタンはその祭神を自分たちの信仰対象と重ねて祈りを捧げました。
大野神社
門神社
辻神社
大野集落の住民は共同墓地に埋葬されました。
しかし、解禁後でも、表立ってカトリックへの復帰を表明したものは、庄屋や役人に共同墓地への埋葬を認めてもらえなかったので、集落から離れた場所に新たに墓地が設けられました。
その墓地からは十字架やメダイ、ロザリオ金具が出土しています。
隠れキリシタンの積石墓
外海の大野集落は、外海の出津集落から北へ約3キロメートルの場所に位置しています。
大野岳から西方の角力灘に面する急斜面地の上にあります。
この集落には、3つの神社(大野神社・門神社・辻神社)、潜伏キリシタンの墓地、そして潜伏キリシタンの信仰の伝統が終焉したことを象徴する教会堂があります。
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世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」ウェブサイト(外部リンク)(新しいウィンドウで開きます)
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