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高島地区の紹介

更新日:2024年10月31日 ページID:002940

高島地区の紹介

高島地区航空写真 高島地区は、長崎港から南西約14.5km離れた高島をはじめ、飛島、中ノ島、端島の4つの島からなり、面積は全島合わせて1.34㎢の海に囲まれた自然豊かな地区です。
 1948年(昭和23年)に町制を施行し、1955年(昭和30年)に高浜村端島と合併、2005年(平成17年)に長崎市と合併しました。
 かつて、高島地区は炭鉱で栄えた町でした。日本の近代化を支えた高島炭坑と端島炭坑は、明治、大正、昭和と最先端の設備を導入することで出炭量を増やし、石炭採掘最盛期には高島と端島を合わせて飛島磯釣り公園と高島海水浴場21,965人が住む人口密度日本一の町でした。
 しかし、1960年以降は、世界のエネルギーの主役が石炭から石油に代わり、1974年(昭和49年)に端島炭坑が閉山、高島炭坑も1986年(昭和61年)に閉山しました。

 現在、唯一の有人島である高島は、美しい海を活かし、本格的な釣りが体験できる飛島磯釣り公園、快適な海水浴が楽しめる高島海水浴場、台座付きテントを備えた高島ふれあいキャンプ場などが整備され、気軽にリゾート気分が味わえる島として、また、世界文化遺産がある島として多くの方々に認知されてきています。
 飛島磯釣り公園は四方を好漁場に囲まれ、釣れる魚種も豊富なため一年を通じて大勢の釣り客が訪れるスポットとして人気を博しています。また、環境省の「日本の水浴場88選」に選ばれた高島海水浴場は、シュノーケリングを楽しむことができる透明度の高いビーチで、県内外から多くの方々が訪れています。

 2015年(平成27年)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製
鋼、ほっけいせいこう造船、石炭産業」の構成資産として高島炭坑と端島炭坑が世界文化遺産に登録されました。
 高島島内には、日本で初めて蒸気機関が導入された北渓井坑跡をはじめとする高島炭坑の往時を偲ばせる遺構が点在しており 、これらの炭坑の歴史は、高島港ターミナル近くの高島石炭資料館で分かりやすく学ぶことができます。
 また、高島の南西沖約2.5kmに浮かぶ端島(通称:軍艦島)は、2009年(平成21年)に一般の方の上陸がたかしまフルーティートマト可能となり、現在では多くの方が上陸ツアーに参加して軍艦島を訪れています。

 高島地区の観光情報(観光スポット、アクティビティ、グルメ、イベント等)は、高島観光ナビ(新しいウィンドウで開きます)で紹介していますので、ぜひご覧ください。

高島地区の歴史

五平太が石炭を発見

 1185年(文治元年)に平家の落武者が住みついたのが始まりと言われ、その後、1695年(元禄8年)に深堀領主の下僕であった五平太が広磯の地で石炭を発見。1710年(宝永7年)、石炭採掘事業が深堀氏の直営となり、高島での炭鉱時代の幕が開きました。

日本初の洋式竪坑

 1868年(慶応4年)には、トーマス・B・グラバーが経営するグラバー商会が、佐賀藩との合弁により竪坑開発を始め、1869年(明治2年)に深さ144尺6寸(約43メートル)で着炭、日本で最初に蒸気機関を用いて石炭の採掘を開始しました。この竪坑は「北渓井坑(ほっけいせいこう)」と呼ばれ、1876年(明治9年)まで操業しました。

三菱発祥の地

 1870年(明治3年)、グラバー商会が倒産し、高島炭坑の経営はオランダ商社に委譲され、1874年(明治7年)1月に官営となった後、同年11月に蓬萊社(後藤象二郎)に払い下げられました。
 1881年(明治14年)には三菱(岩崎彌太郎)に譲渡され、三菱の経営による操業が始まりました。高島炭坑は三菱の本業である海運業の燃料を供給し、その後の九州における炭坑経営の足掛かりとなりました。三菱はさらに多方面へ事業を拡大し、今日の隆盛の基礎を築いたと言われています。そのため、高島は、三菱発祥の地の1つと言われています。

日本の近代化を支えた高島と端島の石炭

 高島炭坑は、最先端の設備を次々に導入して出炭量を増やし、明治・大正・昭和と日本の近代化を支えました。1966年(昭和41年)には、年間153万9500トンの最高出炭量を記録。このころには、両島合わせて約21,965人が住み、高層アパートが建ち並んでいました。特に端島は、面積6.3ヘクタール(63,000平方メートル)ほどの小さな島に、5,000人を超える人が生活しており、当時、端島の人口密度は世界一であったと言われています。

エネルギーの主役は石炭から石油へ

 エネルギー革命により、燃料の主役は石炭から石油に移り、高島炭坑、端島炭坑ともに出炭量は年々減少していきました。ついに1974年(昭和49年)1月に端島炭坑は閉山し、同年4月には、端島は無人島となりました。
 端島炭坑閉山後も、高島炭坑は操業を続けましたが、コスト高に見舞われ、1986年(昭和61年)11月、高島炭坑も閉山に追い込まれました。

町は存亡の危機に

 高島炭坑閉山により、唯一の基幹産業を失った旧高島町は、人口が激減、町の経済は崩壊し、存亡の危機を迎えました。そこで、「石炭を魚に変えて島おこし」をスローガンに、離島の魅力である美しい海を活かした町おこしをはじめました。
 1997年(平成9年)7月、「飛島磯釣り公園」と「高島海水浴場」がオープン。それまで年間3,000人程度であった観光客が、同年は約18,000人に急増、翌年には40,000人を超えるほどになりました。2003年(平成15年)4月には、タラソテラピー(海洋療法)ができる海水温浴施設を備えた「高島いやしの湯」がオープンし、健康づくりのための新たな施設として注目を集めました。

長崎市に編入、そして現在

 2005年(平成17年)、近隣5町とともに長崎市に編入合併しました。
 2015年(平成27年)には、高島炭坑と端島炭坑を構成資産に含む『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』が世界文化遺産に正式登録され、高島炭坑と端島炭坑が、明治時代以降の日本の近代化を支えた貴重な産業遺産であることが認められました。
 2023年(令和5年)からは、長崎大学などが取り組んでいる水産業養殖DXの推進により、若者が集まり活気づく海と生きる地域社会の実現を目指す産学官連携プロジェクトが実施されており、将来、新たな産業の創出が期待されています。

お問い合わせ先

南総合事務所 高島地域センター 

電話番号:095-896-3110

ファックス番号:095-896-2316

住所:〒851-1315 長崎市高島町1728-1

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