ここから本文です。
更新日:2017年10月1日 ページID:027986
※ 出典・・・『日見の史蹟等(発行:日見地区公民館運営協力委員会)』から抜粋
場所:
由緒及び沿革: 文久(ぶんきゅう)3年(1863)日見峠の8合目(俗に八部と呼ばれるところ)に関所が作られた。 ほんの僅かな期間(約4年間)であったが、長崎に出入りする人々を監視した。跡は、明治新道を掘削する時に切り通しの部分にかかり敷地の半分が削られた。現在は、跡に木柱が建っているだけである。
場所:
由緒及び沿革: 明治15年(1882)に1年3ヶ月余の工期で車が通ることができる明治新道ができた。その時、峠を33メートル切り下げて造られたのがこの切り通しである。この道が我が国最初の有料道路で、日見側の料金徴収所が梨子の木茶屋である。
場所:
祭神: 高山様
由緒及び沿革: 万治(まんじ)2年(1659)2月建立。武家のここで討ち死にした人を神様として祭っている(島原の乱の落人が此処で亡くなった)。
氏子: 田森亀男氏が祀っている。
場所:
祭神: 馬頭観音
由緒及び沿革: 建立 文政(ぶんせい)8年(1825)6月 施主 宿 松尾五郎七。馬車引きの方や馬などに事故がないように安全な運行を願って奉っていた。今は、交通事故防止を祈願している。
氏子: 古賀政男氏が祀っている。
場所:
祭神: 白山様
由緒及び沿革: 場所としては峠から見て現在地より先にあったが、道路にかかっている崖を削るときに手前に移動した。手前に崖のところにも何体かあったがまとめた。現在コンクリートで固めた場所の手前の上に湧き水(久米の)があって、水マスがあり地域の人の生活用水にしていたが、今は藪に埋もれてしまっている。
建立: 明治(めいじ)43年(1910)旧7月6日 古賀勘三郎(清次郎) 古賀末吉
手洗鉢: 昭和16年(1941) 山下正子
氏子: 福岡にいる古賀得正氏が祀っている。
場所:
由緒及び沿革: 地元の人は、句碑のことを「獅子駒さん」と呼んでいた。
『向井去来の本名は平次郎兼時。去来は俳号。長崎聖堂の創立者向井元升の次男として慶安4年(1651)長崎後興善町に生まれ、8歳の時父に従い京都に移る。長じて芭蕉に師事。焦門十哲の隋一といわれた。元禄元年(1688)故郷の長崎をたずね、再び上京の折、親族や友人に送られて日見峠で別れるとき「君が手もまじるなるへし花薄」というこの句を残した。天明4年(1784)、去来をしのんで、長崎の俳人の協力で,日見トンネル上部の一本杉の近くに芒塚が建てられたが、安政3年(1856)この地に移され、大正15年(1926)及び昭和28年(1953)修理が加えられた。【
場所: 長崎市芒塚町 (芒塚バス停から凡そ1分・芒塚と本河内の境目)
由緒及び沿革: 明治新道は、蛇行がひどく車両が通行するには大変だったので、トンネル掘削の計画が明治45年頃から起こった。しかし、声が大になったのは大正5・6年頃、県で計画の腹案がなったのは大正8年だが、大正8年道路法の実施によって、国庫の補助を得て具体化し、本工事の実施は大正10年からである。
大正13年(1924)3月23日トンネル工事着手。 大正15年(1926)3月31日開通。竣工費 42万4千円
人や牛馬のために西口から50m余り入ったところの壁に人間用と牛馬用の水のみ場が設けられていた。
場所:
由緒及び沿革: 日見峠に登る中腹にあった茶屋で、江戸時代は日見地区の踏み絵は此処と養国寺で行われた。明治新道の通行料は日見側では、この茶屋で徴収した。長崎自動車道工事と芒塚インター工事に伴い敷地はすべて道路に取られてしまった。昔は、跡を示す木柱があったがそれもなくなってしまっている。平成17年5月に場所は少々移動したが跡の石柱を設置した。
より良いホームページにするために、ご意見をお聞かせください。コメントを書く