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更新日:2017年10月1日 ページID:027994
※ 出典・・・『日見の史蹟等(発行:日見地区公民館運営協力委員会)』から抜粋
場所: 長崎市宿町528-1(国道34号線の大曲から100m程長崎側の道上)
由緒及び沿革: 中里町にあったが長崎自動車道建設により平成14年(2002)11月に移転。
場所: 長崎市宿町(団地前バス停前・宿町第2アパート西上、大曲交差点南側)
由緒及び沿革: 『昭和40年(1965)10月5日午後4時頃、日見小学校6年生の児童が不幸にしてこの地で交通事故にあい翌日なくなった。いとし子を失った家族の悲しみはいうまでもないが、児童を知る者はみな、幼くして散った児童の死を心からいたんだ。児童が亡くなって数日後、事故現場にささやかな塚が設けられ 花が供えられるようになったが その花と共に供えられた手紙によって、それが学友達の心からの供養塔であることがわかった。PTAの関係者は子ども達のまごころに心を打たれると共に、この地が交通事故の多発地であることを思い、こうした悲しみをくり返さないようにと交通安全地蔵尊の建設を発願した。幸いにして多くの人々の共感を呼び、その協力によってこの地蔵尊は建設されたであるが、関係者一同はこの地蔵尊の慈悲によりこのちにおいて、再び交通事故が、繰り返されないことを心から願っている。
場所: 長崎市宿町-田中町界(宿町第三アパート脇の路上(田中町と宿町の境))
由緒及び沿革: 天領と佐賀藩領との境界石柱である。 高さ 120cm、巾 25cm。周辺地域は宅地造成の為様相や位置は少々変わったが国境を示す貴重な証である。
場所: 長崎市宿町70(網場道バス停側・道路公園)
由緒及び沿革: 腹切坂に元禄(げんろく)9年(1696)正月3日地域住民が慰霊のために墓を建てた。正徳(しょうとく)4年(1714)5月3日野田重右衛門が慰霊碑を建立した。碑と墓は長崎街道脇にあった。場所が私有地であったので、昭和50年(1975)に土地開発計画のため、無縁佛として骨と墓及び慰霊碑は坂本町にある県の墓地に移転されていた。この話を聞いて残念に思った住民らが、元の場所に戻そうと尽力したが、日見バイパスに掛かるという話から、日見内での受け入れ場所が見つからなかった。その後、昭和54年(1979)11月25日市民等の尽力と教宗寺の好意で教宗寺の境内に移転することができた。
平成14年(2002) 3月29日日見バイパス工事完了に伴い、日見腹切坂史跡保存会の尽力で、当初の位置より下った別の場所になったが、国道脇の現在地に道路公園の一部として移転整備された。骨は、火葬され西本願寺に納骨された。
場所: 長崎市宿町171-2(国道34号線網場バス停西下側・酒屋よこたの下)
由緒及び沿革: 先祖が網場の海で見つけ当地でお祭りしているといわれている。
場所: 長崎市宿町108番地2(国道34号線網場道交差点の東側下・エレナ日見店前)
由緒及び沿革: 昔は「べんてんさん」と親しまれ、子供たちのよき遊び場であった。田仕事の合間には、木陰で休むことができて、のんびり昼寝ができるくらいの敷地があったが、日見バイパス工事に伴い敷地が狭まり、社殿は移動して小さくなった。鳥居も移転され、鳥居からの階段は改造されているものの、ほぼそのままの姿を保っている。
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