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更新日:2017年10月1日 ページID:027996
※ 出典・・・『日見の史蹟等(発行:日見地区公民館運営協力委員会)』から抜粋
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由緒及び沿革: 大昔より田んぼの中に社があり乳が出る地蔵尊として多くの方々が願をかけ今日に至っている。昔は,学校帰りや海水浴帰りの男の子達が集まって遊んだ場所であり、祭りのときは、子供たちが御礼の手伝いをしていたそうだ。今は、お祭りのときも、女性だけで子どもの姿は見えない。子安地蔵菩薩さまの石仏はお乳が立体的であり、乳飲み子を抱いた姿であるが顔は潰されてしまっている。地蔵菩薩、観音菩薩ともう一体何の変哲も無いと思われる石があるが言われは不明。猿田彦の石像もある。
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由緒及び沿革: 田中町の東望幼稚園のところから、界町261番地を経て昭和40年(1965)4月現在地に建立。
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由緒及び沿革: 明治以前は「祇園社」と称していたが、明治の神仏分離により、八坂神社となった。昭和37年(1962)の区画整理事業以前は、敷地は今の1.5倍はあった。昔は、三段に分かれ、川から石段を登って鳥居をくぐっていた。鳥居の奥に広場があった。一段上がって拝殿があり、今より奥にあった。現在、観音堂があるところが一段高くなっていて本殿があった。
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由緒及び沿革: 観音寺は黄檗宗(禅宗の一派)長崎市玉園町、聖福寺の末寺とされ、長崎人や、長崎残留の中国人たちに信仰された。しかしいつの頃か廃寺となり、現在では観音堂が残るばかり。お堂に祀られている千手観音像は「行基ゆかりの7観音」と呼ばれる。その昔、行基菩薩が九州行脚の際、野母半島に流れ着いた1本の大木を見て、観音像の彫刻を祈願され七体の観音像を刻まれ、その御像を各地に奉安されたといわれている。この日見の観音像も、その七つの観音像の一つらしい。汐見岳の観音堂は昭和57年(1982)7月23日の長崎大水害により流失破壊されてしまったが、信徒らが再建した。その後、平成3年(1991)9月の19号台風で社殿は壊滅的被害を受けたが再建された。
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由緒及び沿革: 馬頭観音は、当初は弁財天のところにあり、近くの農家の人たちを中心に祀っていた。その後、千手観音堂脇に移った。地蔵菩薩は、長崎大水害後新たに製作された。バイパス工事に伴い観音堂と一緒に現在地へ移転した。
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