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更新日:2017年10月1日 ページID:027998
※ 出典・・・『日見の史蹟等(発行:日見地区公民館運営協力委員会)』から抜粋
場所:
由緒及び沿革: 和銅(わどう)4年(711)に鎮座したと伝えられている。京都の伏見稲荷が総本社である。昔、周辺に狐がたくさんいたと伝えられ、近所にたんぼ、畑に利用される大きなため池があった。京都の伏見稲荷本社になじんで建てられた。第2次大戦終戦後まで、祠と鳥居の間の広場には拝殿があり、戦時中(第2次世界大戦)は軍が倉庫として利用していた時期もあった。 その後、老朽化のため解体され、広場となっている。
場所:
由緒及び沿革: 祭祀はじめは平成3年(1991)。前は井戸のみであった。昔屋敷内にあった古井戸を埋めていたが、人から「井戸を埋めたらよくない。また井戸を使い、水神様を祭って通行する人に水を掛けてもらいなさい。」と言われ、平成3年にあらためて井戸をボーリングし(古井戸に合わせて深さを、先祖から言い伝えられていた60尺(約18.18m))とし、水掛地蔵菩薩を祭祀したという 。
場所:
由緒及び沿革: 祭祀はじめは昭和10年(1935)頃。理由等は明らかではない。
場所: 長崎市網場町474(個人宅敷地の表入り口付近)
由緒及び沿革: 同家の庭には、先祖が屋敷造成した時、生えていた木を切り倒さないで、庭先にそのままにしておいたという樫の大木がある。樹齢は不明であるが、かなり古い樹で根元が空洞になり、2本の木のように分かれ更にそれぞれの根元から出た芽が、かなり大きな幹となっている古い樹である。
場所: 長崎市網場町482(個人宅庭)
由緒及び沿革: 不明。祭神は天照大神。
場所: 長崎市網場町451 (網場バス停から山側に進んだところ)
由緒及び沿革: 領主松倉豊後守重政の要請でキリシタン対策として寛永(かんえい)8年(1631)に開創された。初代住職は頂譽。昭和57年(1982)本堂改築。
場所: 長崎市網場町451 (養國寺内)
由緒及び沿革: 養国寺本堂改築記念に、水子地蔵本尊を設置。
場所: 長崎市網場町451 (養國寺内)
由緒及び沿革: 創建は昭和57年(1982)。明治以降の戦没、陸海軍人軍属並びに戦争犠牲者を合祀している。昭和26年6月有志が計って明治以後戦没96柱を養国寺内に「忠霊塔」として祀り、「忠霊碑」の銘を書いたもので養国寺の境内にあった。しかし、本堂建替えの時に忠魂碑として、再建立、碑文のみ存続した。
場所: 長崎市網場町451(養国寺上り階段途中の横内)
由緒及び沿革: 多くの地蔵様を合祀してある。
場所: 長崎市網場町451(養国寺内本堂裏)
由緒及び沿革: 不明。祭神は天照大神。
場所: 長崎市網場町451(養国寺内本堂裏)
由緒及び沿革: 下半身の病気や不妊、子どもの寝小便に効能をもつという。
場所: 長崎市網場町451(養国寺階段脇・観音像の後)
由緒及び沿革: 不明
場所: 長崎市網場町451(養国寺の墓地内・宿町から網場へて春日に通じる赤道の本堂側脇)
由緒及び沿革: ≪こぼれ話≫ 網場の日見山養国寺の上に小道がある。この小道は昔、茂木に通じる唯一の交通路であった。文化初年(1804)肥後の住人で与右衛門が泣河原で重傷を負いながら“あめ屋”まで辿りつき絶命したという伝説の小道でもある。この道(養国寺の真上)に椿の木があり、萱や雑草が繁茂していた。この中に、一体の“地蔵尊”が風雨にさらされ、花を手向ける人もなく立っていた。“地蔵尊”が建てられているのは、昔、人身事故がこの場で発生したのであろう。しかし、今ではこの経過は誰にもわからない。ここから南に行った約150mのところに「吉岡雪四郎」さんが住んでいた。腕のよい石工で、身長はさ程ではないが、体力衆に優れ群を抜いていた。近隣近郷でも、彼と比肩できる者はなかった。ある日、人が集まる場所で誰云うとなく力自慢の腕試しが始まった。米俵(100kg)を、両手で前に肩まで水平に持ち上げたのは、郷土力士(大相撲)両国と唯2人であった。しかしこの雪四郎氏には持病の癪(激しい発作的、間欠的な腹痛により、冷や汗を流し七転八倒の苦しみを訴える)があり、茂木で作業中に突然発作があり、意識をなくした。その時雪四郎氏は夢現の中で地蔵、観音さんが近寄り、早く帰れと指示され、途端に気がついた。その時周囲の人達は驚きあわて顔に水を浴びせた。意識の回復はその瞬間であった。雪四郎氏は仏の導きにより身を救われ事なきを得たのであった。その後墓工事の折、この地に地蔵尊を収容する仏屋をつくり安住していただくことにしたのである。今では花、線香の絶えることなく、道行く人はほとんどが頭を下げ合掌する。 (H13.2雪四郎氏のご子息から聞き取り)
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