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更新日:2016年1月22日 ページID:028004
場所
由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 不明。40年以上前からある。石垣が高いので、壊れないように祀ってあるのか石垣の上にもろ石をのせて風除けに積んだもの。手前は壊れたことがあるが、この祠から先は壊れたことがないため、石垣の守り神様と思われる。
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由緒及び沿革 不明。明治32年(1892)3月18日建立
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由緒及び沿革 ずいぶん昔から合祀してあるが年代は不明。一時はお堂の屋根もずれて雨漏りもした時期もあったが、平成5年(1993)に自治会の皆さんの尽力でコンクリート造りに改築してから、雨漏りの心配もなくなった。お堂の脇に大きな楠があるので、瓦屋根は掃除が大変。地蔵菩薩様が新しく見えるのは、古いお堂の時雨漏りがして雨で洗われたからではないかと思われる。昭和57年(1982)の長崎大水害の時は、横の滝には土砂が流れたが地蔵堂には何ら影響は無かった。祭りの時は23日の夜から地区民が集まって、鐘を打ち念仏を唱えていた。昔は、鐘の叩き方の練習を引き継いでいたが、今では途絶えているので鐘は鳴らない。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 不明。昭和5年(1930)11月8日建立。昭和48・57年の鉄砲水で被害を受けた。すでに住人はなく荒れつつある庭に建ってらっしゃる 。このまま朽ち果ててしまうのか。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 分家してこちらに家を建ててから祀っており、55年以上になる。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 大山祇命(天保(てんぽう)2年(1831)5月建立)。大山神社(昭和2年(1927)11月9日建立。
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由緒及び沿革 個人が祀っている。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 昭和11年頃、屋敷を開いたとき人骨がでできた。それから祀っている。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 源平合戦で7人の方がここいらで亡くなった(林五郎左衛門・森光成・紀州の人・八代の人など)。ここの下のところには3つの塚があった。盛り上げた塚の上に稲荷さんに供えるおにぎりの様な形をした大きな石があった。牛などをつなぐのに使ったりしていたが、それも無くなってしまった。ここら一帯にはたくさんの塚があったが、畑にしたり宅地にするときに他へ移動したようである。その塚を壊した人に体調を壊す人が多かった。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 三界万霊無縁塔の記載がある。年代はよく見えない。23日にはお菓子や天婦羅等を出して夜中まで過ごす、さんや様(月が3つに見えるように出るという)出るという。昔は観音堂で行われている5つの鐘での念仏をこの地蔵の前でも行っていた。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 大阪に住んでいる現在の当主の叔母が若い頃、帰省した時憑いてこられたので、こちらで祀っている。
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由緒及び沿革 昔は、地区で湧水を溜めて利用していた場所を護っていらっしゃった。県道ができてその下になったこともあって崖が崩れたので、現在地に移動した。移動してから40年ほどになる。
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由緒及び沿革 家人が病気になってから祀っている。50年くらい前から祀っている。
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由緒及び沿革 明治35年(1902)6月15日建立。先祖さんのお祭りを行っている。
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由緒及び沿革 不明。以前は泊りがけでお祭りしていた。
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由緒及び沿革 不明
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由緒及び沿革 安政2年(1855)3月11日建立。昔はこの稲荷様は森の中であったが、開墾されて畑になった。現在は、畑の横にぽつんと建っている。横には石をくりぬいたロウソク立てがある。ちょっと離れたところには、石をくりぬいた手洗いがある。
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由緒及び沿革 日見地区で最も古い神社である。掘れば方々から白骨がでていたのでそれをまとめて祀った神社で、昔は白骨神社とも言っていた。昔は、此処を掘れ、彼処を掘れと言われて掘れば、刀や武具がでてきた。塚も幾つかあったし、一抱えもある大きな木が何本もあった。しかし、昭和57年(1982)の大水害のとき工事中であった県道のセメントの擁壁が一気に崩れ落ち土石流となって大木も神社等も根こそぎ流され、焼山方まで吹き上げ逆流して流れてしまった。
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由緒及び沿革 古賀浦というところは、沖から攻めかけてきて、戦争があって一帯は焼け野原になったので、ここいらを焼け山といい、周囲が全く見えなくなったので闇払い(やんばら)という。明治35年ごろ部落に悪病が流行、落人伝説の地を掘ると多数の人骨や日本刀などが出土した。その時の武器などを集めて、昭和2年(1927)靖国神社として祀った。護国神社の意思の祠脇に墓碑がたっている。昭和57年(1982)の大水害ですべての墓碑、人骨や刀剣等が流失し行方不明になった。この墓碑だけが発見された。
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由緒及び沿革 不明。年代不詳。
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由緒及び沿革 昔は、子どもたちが日曜日には神社めぐりをして掃除をしていたが、今ではその風習もなくなっている。その為、祭以外の時に掃除をする人もいないので、大変荒れている。
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由緒及び沿革 文政(ぶんせい)12年(1829)丑2月吉日建立。草墨御前というのは、島原出身の目が悪い女性で山犬に襲われて倒れていたのを、日見の人が助けたが亡くなったということである。(茂木にも似たような話がある)亡くなるときに、見晴らしのよいところに眠りたいとの希望があったので、旧道から少し離れて、道に背を向け海(熊本)のほうを向いた状態で祠は建っている。県道建設で崖を削ったので旧道側に移動し、コンクリートで固めた平らな上に祠が乗っている。昔は、もっと海側で石組みの上に乗って、周囲には石がたくさんあったそうである。旧道は、太田尾まで徒歩15分くらいで行くことができていたが、今は通る人も無く、道は藪に覆われ鎌無しには通れない状態である。昔は、旧道を通る人が参っていたが、今は訪れる人も無く寂しい限りである。
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