ここから本文です。
更新日:2013年3月1日 ページID:000647
(かんのんじのみんぞくかんけいしりょう)
指定年月日 平成17年3月16日 平成20年4月30日
所在地 長崎市脇岬町2330番地 観音寺内
この塔は、別名「豪潮塔(ごうちょうとう)」とも呼ばれ、熊本の名僧、豪潮が衆生済度のため東奔西走し、全国の有名寺院に約2千余の造塔をしたといわれ、県下では7基が知られている。この塔は、文化14年(1817)長崎の商人、福島清七の寄進により建立と刻名されている。当時の寺の格式を示すとともに、豪潮の足跡をしるす重要なものである。
「慈悲」、「圓通」とは、「仏や菩薩のあわれみの心があまねくゆきわたっている」という意味で、中国の寺では「圓通」とは観音の徳をたたえているという言葉である。この扁額は中国人高?によって文政13年(1830)に書かれたもので、観音の徳を賛えて奉納されたものである。長崎に渡来する中国人は、長崎の港の出入口に位置する本寺に航海の安全を祈ったといわれ、この額もそのような関係から奉納されたもので、来舶の中国人と本寺との緊密な関係が知られる貴重な資料である。
本図は、釈迦の入滅を描いた江戸期天保年間(1830~1843)の手彩色による大型木版画である。
各地に同様のものがあるが、比較的保存状態が良好で江戸期におけるわが国の仏教版画の流れを知る貴重な一例であり、檀家に大変親しまれたものである。
禅宗の寺院では、師の法を嗣いだ証として、また先師の徳を偲ぶために師の肖像が描かれる。本寺においては欠落したものを後代に補っているが、全代の師の肖像が完備されており貴重である。
「常陽寿昌沙門東海拝画」の款をもつこの達磨図は、東海禅師の作である。東海は水戸の祇園寺の住職で、本図は紙に大筆で大描きした大作で、東海の墨画を代表する貴重なものである。
この縁起書は、観音寺の創建並びに千手観音立像の来歴や、寺で起った神変奇異の物語などが記されており、宝永5年(1708)、沙門禅師によって書き直されたものである。江戸期以前の寺の姿を伝える貴重な資料である。
天保15年(1844)寄進の紀年名を有しており、第12代住職の朝雲大晃のときに納めたことが記されている。大晃の代に、観音寺本堂の再建が完了し、天井絵(県指定有形文化財)が描かれており、寄進もこれに伴うものと推測される。寄進者の姓名などが刻銘され、その中には、寄合町の遊女屋「油屋」「引田屋」の名もある。これら遊女屋の名に続き、女性の名が列挙されており、遊女の名と推定できる。我が国を代表する遊里の一つとされている丸山遊里と観音寺との関係とともに、当時の遊里の一資料として、また、江戸時代における長崎の人達と「岬の観音寺」を結ぶ、大衆の信仰を実証する参考資料として、価値ある資料である。平成20年4月30日に、太鼓と併せて追加指定された。
弘化2年(1845)奉納の紀年名を有しており、大晃のときに納めたことが記されている。
備考
地図検索(新しいウィンドウで開きます)
バス「観音寺前」下車徒歩5分
(補足)公開の有無は所在地に直接お問い合わせください
より良いホームページにするために、ご意見をお聞かせください。コメントを書く