ここから本文です。
更新日:2013年3月1日 ページID:000677
(そくひぜんじしょきじょうろくそく)
指定年月日 昭和47年6月10日
所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号 崇福寺内
寛文11年(1671)、 数え年56歳を迎えた即非禅師は、2月再び病の徴候があり、今度の病は治ることはないだろうと随侍(ずいじ)の弟子に洩らした。それからも平常と変りなく毎日の仏事を営み、 題賛を乞うものがあればこころよく応じた。 しかし、薬は辞し、食はすすまず、痩色は日に増すばかりであった。
寛文11年5月6日、規条六則を書いた。この規条六則は、崇福寺を継いでいく人のために、 守るべき要点を示したものである。 示寂(じじゃく)のちょうど二週間前の書である。 5月14日は最後の誕生日で大ぜいの人が見舞い、やがて5月20日の示寂の日を迎えるのである。
より良いホームページにするために、ご意見をお聞かせください。コメントを書く