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更新日:2016年11月28日 ページID:026987
(たかしまたんこうあと たかしまほっけいせいこうあと なかのしまたんこうあと はしまたんこうあと)
平成26年10月6日
長崎市高島町99番1ほか
長崎市高島町中ノ島
長崎市高島町端島
高島炭鉱跡は、わが国の近代における採炭に関する代表的な遺跡である。高島、中ノ島、端島の3島に所在し、幕末・明治初頭の「高島北渓井坑跡」、明治期の「中ノ島炭坑跡」、明治から昭和にかけての「端島炭坑跡」からなり、幕末から昭和までの各時期の遺構が多数残っている。近代日本の石炭産業の成立と発展を知るうえで貴重かつ、重要である。
高島北渓井坑跡
幕末の開国に伴い蒸気船燃料としての石炭需要が高まるなか、慶応4年(1868)、佐賀藩とグラバー商会との出資事業により開発された。外国資本と外国技術が、わが国においてはじめて導入された炭坑である。深さ43mに達した竪坑(たてこう)の坑口をはじめ、周辺に蒸気機関の痕跡とみられる遺構などが地中に良好に残存しており、近代的炭坑技術導入初期の様相を伝えている。
中ノ島炭坑跡
中ノ島炭坑は、明治16年(1883)から出炭を開始し、翌17年に三菱社の経営となり、高島炭鉱経営初期において主要な炭坑の一つであったが、坑内の出水が激しく明治26年(1893)に廃坑した。中ノ島炭坑跡は、狭隘(きょうあい)な島嶼部が開発された近代海底炭坑の遺跡であり、当時の炭坑施設遺構が島内の各地に保存されている。
端島炭坑跡
端島炭坑は、明治23年(1890)に三菱社が買収し、昭和49年(1974)まで稼働した。端島は、石炭採掘の活性化に伴い、施設の充実が図られ、段階的に埋立て・拡張が進められるとともに、狭い島内に多数の炭鉱従事者とその家族の住宅を確保するため、大正期以降、鉄筋コンクリート造高層アパートが密集して建設された。また、高い護岸によって囲まれ洋上に浮かぶ姿から軍艦島と呼ばれるようになった。現在、埋め立ての各段階を示す護岸遺構や、第二竪坑跡、第三竪坑跡、第四竪坑跡などの生産施設跡、大正・昭和期の鉄筋コンクリート造建物群も残存している。
備考
高島北渓井坑跡
1.高島港より徒歩30分
2.循環バス「本町」下車徒歩1分
中ノ島炭坑跡
原則立ち入り禁止となっています。
端島炭坑跡
端島へ上陸するには各船会社が運航している観光船をご利用いただく必要があります。
※乗船に関する予約・お問い合わせ等は、各船会社までお問い合わせください。
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