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更新日:2024年6月14日 ページID:028962
長崎台場跡(ながさきだいばあと)
魚見岳台場跡(うおみだけだいばあと)
四郎ヶ島台場跡(しろうがしまだいばあと)
女神台場跡(めがみだいばあと)
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土地管理者:長崎市上下水道局 下水道施設課 東部施設係 (電話番号:095-829-1180)
昭和61年1月31日(魚見岳台場跡)
平成26年3月18日(追加指定:四郎ヶ島台場跡)
令和2年3月10日(追加指定:女神台場跡)
魚見岳台場跡 長崎市戸町5丁目
四郎ヶ島台場跡 長崎市神ノ島町3丁目
女神台場跡 長崎市戸町4丁目
長崎台場は、江戸時代、中国・オランダに開かれていた長崎港を警備するための施設である。寛永18年(1641)、港口に西泊・戸町両番所が置かれ石火矢台が設けられた。承応3年(1654)には港口の7か所に築造され、これらは、のちに増築された台場に対して「古台場(または在来台場)」と呼ばれる。次いで、文化5年(1808)に長崎港内においてフェートン号事件が発生し、改めて長崎警備の強化が図られ、同年5か所に「新台場」が築かれ、続いて文化7年(1810)には4か所に「増台場」が築かれる。これらの古台場から増台場までは幕府主導により築造された「公儀御台場」である。また、幕末になり再び外国船の出没が頻繁になると、長崎港警備の強化が図られ、長崎警備担当の佐賀藩は、長崎港外の佐賀藩領神ノ島や伊王島などに新たに台場を築いた。
長崎台場は、記録上23か所が確認されており、このうち、次の3か所が国史跡となっている。
文化9年(1812)に福岡藩により築造された魚見岳台場跡は、台場跡・火薬庫石倉等の遺構が良好に残されており、はじめに指定された(昭和61年1月31日)。増台場の時期に築造された台場である。
幕末に築造された台場のうち、嘉永6年(1853)に佐賀藩主鍋島直正によって築造された四郎ヶ島台場跡は、胸壁など西洋の軍事技術を導入したことがわかる遺構が遺る。長崎台場跡23か所のなかでも最も新しい時期のものである。(平成26年3月18日に追加指定)
当初築造された古台場の遺構は確認されていないが、文化5年(1808)に増強された新台場に関連する石蔵跡などの遺構が残存しており、女神台場跡が追加指定された。(令和2年3月10日に追加指定)
魚見岳台場跡は長崎バス「女神」バス停下車、徒歩10分
四郎ヶ島台場跡は長崎バス「神の島教会下」バス停下車、徒歩15分
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