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更新日:2024年5月15日 ページID:042087
前年度から開始した当研究所の学芸員コラムですが、1~4回目までは、長崎学や当研究所について紹介しました。今年度は、学芸員の仕事や研究テーマなどを主な内容に、2か月に1回程度、配信する予定です。
さて、わたしの専門上、土を掘る機会が多いこともあり(考古学)、今回は江戸時代の長崎の市街地「長崎市中」の土地造成についてお話ししたいと思います。
1571年(元亀2)に町建てがされてのち、長崎は、江戸幕府が公に開いた中国・オランダとの貿易港となりました。それまでの約60年の間に、ビジネスチャンスを求めた人びとが中心に流入し、順次、町が増えました。人口が増えると新たな居住地が必要です。そして、元の町と新しい町をつなぐ、整った街路や町の区割りも大事です。
そこで、居住地を増やすため海岸を埋めました。江戸時代前期までに「築町」「築出町」「浦築出町」など、埋立ての名残のある町もできました。また、寛文3年(1663)の火災で市中のほとんどが焼けましたが、復興時の同12年(1672)には、町の規模を均等にし、街路幅や町裏の下水溝の幅などが統一されました。
その後も引き続き、海岸や川岸が埋められました。川筋に関しては、河川幅を整える目的もあったようです。文献上、一番多く埋めた年は延宝4年(1676)、合計約4,477坪余り(約17,373平方メートル)が造成されました。換算すると、一般的な野球場のグラウンドの1.3倍の広さです。
1780~90年代には「架造」と言う、海辺や河岸に家を架け造りにする工事が現れました。ほかにも、同時期から1830年代頃までの間に、平戸町などでは「岸上空地」を造りました。おそらく斜面地を埋めて平らに造成したのでしょう。
江戸幕府が存在したのは約260年間。17世紀前半、17世紀末、18世紀末から19世紀前半と、何度も「変革期」を経て、長崎の土地や居住地が形成されたのです。
【参考】「さかんまち」長崎のなりたち
(長崎市長崎学研究所 学芸員 田中 学)
五島町遺跡から出土した海岸護岸の石垣。江戸時代以前(写真奥)から年を経るごとに海側(写真手前)に築かれ、その分、敷地が増えたことがわかる。
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