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更新日:2024年7月1日 ページID:042287
多くの方が、「長崎は江戸時代、いわゆる鎖国政策下で特別な役割を果たしたまち」だと認識してくださっています。
そんななか、「長崎に殿様はいなかったの?」「お城はなかったの?」というお尋ねをいただくことがあります。いいご質問です!お答えするなかで、長崎が特別なまちだったことをお伝えしたいと思います。
(今回は主に江戸時代の都市・長崎に限ってお話をします)
殿様がいてお城がある地域、長崎の近隣でも福岡や佐賀、熊本などをイメージすると思いますが、これらは大名が治める藩です。
江戸幕府のトップ・将軍は、主従関係を結んだ大名に領地を与えました。大名は城を構え、自身の藩を支配しました。
一方で、江戸幕府は重要な地域を直轄地(幕領。天領と言う場合も)にし、将軍の直属の家臣である旗本や御家人に支配させました。
長崎は、元亀2年(1571)のポルトガル貿易港としての開港以来、日本で重要な地位を得ていたので、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)には、旗本・小笠原一庵が長崎奉行に任命され、支配しました。長崎奉行は、当初は貿易の監督が主な職務で、貿易の時期だけ長崎に駐在していました。
江戸幕府が外国との自由な交流を制限していき、日本がいわゆる鎖国の状態になると、長崎は江戸幕府が唯一公式に開いた国際貿易港の地位を確立します。長崎奉行も、何度もの制度変更を経て、正徳4(1714)年以降は2人体制に、また、職務が増え権力を強めていきました。
さて、今回のコラムは、「江戸時代の都市・長崎には、城を構えて藩を治める殿様、つまり大名はいなかった」とまとめたいと思います。なお、現在の長崎市域を見渡すと、江戸時代には大村藩領や佐賀藩領(親類同格の諫早家、家老職の深堀鍋島家)、また長崎代官の支配を受けた村もありました。
かなり大掴みなお話でしたが、江戸時代の長崎の構造やまちの支配に興味を持ってくださった皆様、ぜひ最初のステップとして、図書館で『わかる!和華蘭』(『新長崎市史』普及版)を手に取ってみてください。
(長崎市長崎学研究所 学芸員 田中 希和)
『新長崎市史』の普及版、『わかる!和華蘭』。先史時代から現代までの歴史、自然地理、現代にも根差す伝統文化など、長崎市の「これまで」がぎゅっと詰まっています。
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