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更新日:2015年11月20日 ページID:007341
游学という言葉には、ふるさとを離れ、他の土地や外国で勉強するという意味があります。
江戸時代、徳川幕府は鎖国政策を実施しました。しかし、幕府は例外として、オランダと中国に対し、日本で貿易することを許し、貿易の窓口を長崎に限定したので、海外の文化や学問は長崎を通して日本全国へ伝えられました。また、キリスト教以外の書籍の輸入も認められていました。しかし、書籍の知識に満足せず、蘭学や医学、科学、美術などの技術や知識を習得するため、長崎へ游学する者は跡を絶ちませんでした。幕末期の長崎には、近代日本を背負って立つこととなる人たちが大勢游学しています。彼らが日本の近代化を後押ししたと云っても過言ではありません。
それらの人たちと交流を持ち、ともに夢を追いかけた長崎人もいました。
長崎は、彼らにとって、新しい情報にあふれた刺激的なまちだったに違いありません。
薩摩藩。島津久光に仕えた帯刀は、文久元年(1861)、26歳の頃、長崎に出張し、オランダ海軍士官から電気・水雷術や艦船運用術を学ぶ。若くして家老となり、薩長同盟の締結に尽力し、将軍・徳川慶喜に大政奉還を進言した。坂本龍馬と深い交流を持ち、亀山社中の設立を支援。龍馬とお龍の結婚式の媒酌も務めた。また、トーマス・ブレイク・グラバーとも商売を超えた交流があり、両者の協力で小菅修船場が完成した。
薩摩藩。学問や藩務に励み、島津斉彬に取り立てられる。第一次征長戦では、幕府側の参謀として活躍した。その後、討幕へと方向転換を図り、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を締結。勝海舟と会談し、江戸城無血開城も実現した。長崎には、明治5年(1872)、明治天皇の主席供奉員として訪れ、現在の長崎歴史文化博物館の場所にあった県庁や造船所、小菅修船場などを視察。明治10年(1877)の西南戦争で政府軍に敗れ自害した。
長州藩。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、木戸孝允らとともに尊王攘夷運動に従事する。長崎では、オランダ人から洋式操練を習得。また、トーマス・ブレイク・グラバーの手を借りて、井上馨らとイギリスへ密航。第二次征長戦の際には、来崎して薩摩藩の援助で汽船や武器を購入し、長州軍を勝利に導いた。明治政府においては、初代内閣総理大臣をはじめ数々の要職に就き、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たす。
長州藩。江戸で蘭学を学んだ後、海軍学を修める。強烈な攘夷主義者で、高杉晋作、伊藤博文らと行動を共にした。長崎においては、坂本龍馬の仲介で小松帯刀と会い、薩摩藩名義でグラバー商会から武器を購入し、第二次征長戦に備えた。維新後、長崎府判事を務める。明治政府では外務大臣時代に、鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、不平等条約の改正に奔走。財界においても大きな力を持ち、三井財閥の最高顧問も務めた。
長州藩。20歳のときに長崎へ游学。このときの記録を著書「西遊日記」に残している。長崎では唐人屋敷と出島のオランダ商館を見学し、オランダ船にも乗っている。また、西泊の番所や石火矢台などを海上から見学。兵学師範の家を継いだ松陰は、長崎警備の様子を自分の目で見たかったのだと思われる。この後、嘉永6年(1853)、ロシアの使節・プチャーチンが長崎に来航したとき、密航を企て3度目の長崎入りを果たした。
土佐藩。14歳から武術を学び、江戸で修行を積む。土佐勤皇党に加盟し、沢村惣之丞と脱藩。間もなく勝海舟の弟子となり、神戸海軍伝習所の設立に尽力する。元治元年(1864)、海舟に伴われて初めて来崎。翌年、同志と長崎に「亀山社中」を結成して海軍業などを手掛ける。一方で、薩長同盟を成立させるなど、倒幕活動に奔走。慶応3年(1867)、「船中八策」を策定し、同年、大政奉還が実現したが、その直後、京都にて33歳で暗殺される。
土佐藩。幼い頃から文才を発揮し、21歳の時に江戸へ游学。国元に戻って吉田東洋の少林塾に入塾し、藩政にも参画する。長崎の土佐商会の主任に抜擢され、藩の貿易に従事するとともに、海援隊への俸禄の支給を担当。海援隊が巻き込まれたイカルス号事件の際は、土佐藩の責任者として坂本龍馬とともに解決に尽力する。大阪の土佐商会に移り、同商会を藩から引き継いで海運業を展開し、巨額の富を得て三菱財閥の基礎を築いた。
土佐藩。慶応元年(1865)、亀山社中結成に参加し、“龍馬の片腕”と呼ばれた。同年、薩摩藩の名義を借りた長州藩が長崎で軍艦・武器を購入することになると、中心的な役割を果たした。しかし、慶応2年(1866)、英国への単独渡航の計画が露見し、長崎の小曽根邸内で切腹。のちに、それを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃ」と、妻のお龍に語ったという。近藤の墓は、現在、晧台寺(長崎市寺町)に残されている。
土佐藩。吉田東洋の少林塾で、板垣退助らと学ぶ。藩政に参画し、藩営商会の運営に尽力した。坂本龍馬とは敵対関係にあったが、長崎の清風亭で会談し、意気投合。龍馬が提案した「船中八策」に基づき、前藩主に対して将軍に大政奉還させるよう進言した。脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのも彼の働きによるといわれる。一時、高島炭鉱を経営したが、経営破綻し、岩崎弥太郎に売却した。明治政府では、逓信大臣などを歴任。
肥前藩。7歳から儒学教育を受けるが、これに反発して退学し、尊王攘夷派の政治結社・義祭同盟に加わる。その後、蘭学を教えていたが、慶応元年(1865)、肥前藩が長崎に開いた英語伝習所「致遠館」に、校長として宣教師フルベッキを迎え、副島種臣とともに指導に当たる。自らも英語を学ぶとともに、尊王派として活動。明治政府になって長崎府判事に登用される。のちに、東京専門学校(現早稲田大学)を創立し、第8代、第17代の内閣総理大臣も務めた。
中津藩。安政元年(1854)19歳の時、長崎へ游学。砲術研究のため奇寓していた中津藩の奥平壱岐を頼って来崎し、光永寺(桶屋町)に一時寄宿した。その後、出来大工町にあった高島秋帆門下の砲術家・山本物次郎の家に移り、長崎で約1年間、蘭学を学ぶ。現在も諭吉が使用したとされる井戸が出来大工町の一画に残っている。滞在中は、勉学に励むため、接客時以外には酒を飲まなかったといわれる。のちに、慶應義塾を創設。
江戸に生まれ、少年時代より剣術を学ぶ。蘭学、西洋兵学などを習得し、私塾を開く。安政2年(1855)、海軍伝習生として来崎。オランダ語ができたため、教監も兼ねて4年間滞在し、伝習所の運営に尽力した。江戸に戻り、万延元年(1860)、咸臨丸で日本人で初めて太平洋横断に成功し、渡米。その後、海軍奉行となり、また、神戸に海軍操練所を設立し、坂本龍馬らを育てた。明治政府では参議兼海軍卿、枢密顧問官などを歴任。
和歌山藩。文久3年(1863)、勝海舟に入門。神戸海軍操練所に学び、坂本龍馬と交友を深めた。その後、亀山社中・海援隊と、終始龍馬と行動を共にすることになる。龍馬は陸奥の才能を高く評価し、「大小の刀を取り上げても路頭に迷わないのは、僕と君のみ」と語ったという。また、陸奥は長崎で外国人の家庭に住み込み、英語を学んだとも伝わっている。明示25年(1892)、外務大臣となり、条約改正と日清戦争の外交指導に尽力した。
長崎市銀屋町生まれ。16歳の時、広瀬淡窓の漢学の私塾・咸宜園(かんぎえん)に入り、3年ほど学ぶ。安政5年(1858)、オランダ海軍医・ポンペを教師とする医学伝習所に入門。舎密(せいみ)学(化学)を学んだ折、蘭書から湿板写真を知り、その研究に没頭する。薬品の製造も行い、日本における湿板写真の技術を確立し、日本初の商業写真家となる。坂本龍馬などの幕末の志士やロシア皇太子といった人物のほか、当時の長崎の風景や暮らしぶりを撮影した数多くの写真が残っている。
長崎の油屋町で代々油問屋を営む旧家に生まれる。幕末、長崎在住のイギリス人貿易商・オルトと組んで日本茶を輸出し、貿易商として成功。莫大な利益を収めるとともに日本茶を世界に広めた。坂本龍馬をはじめとする幕末の志士とも交流があり、彼らのスポンサーだったともいわれる。晩年には、悪質な詐欺に遭い、不当な責任を負わされ、不遇のうちに生涯を終えた。後年、慶の茶貿易の功績が認められ、明治政府から功労賞が贈られた。
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