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更新日:2016年1月12日 ページID:027931
原爆被爆対策部被爆継承課
平成27年度第4回長崎原爆遺跡調査検討委員会
平成27年7月28日(火曜日)9時00分~11時00分
長崎原爆資料館 地下1階 平和学習室
⑴ 前回会議での意見・指摘等を受けて
ア 爆心地
⑵ 調査報告書目次について
ア 旧城山国民学校の土地利用の変遷
イ 旧城山国民学校校舎コンクリート調査の結果
ウ その他
(ア) ヒアリング調査
(イ) 山王神社石造物に係る拓本
(1)委 員 佐々木委員、下川委員(会長)、原山委員、森委員
(2)事務局 中村原爆資料館長、松尾被爆継承課長、高江文化財課長、緒方被爆継承課被爆資料係長、
宮下文化財課係長、奥野被爆継承課学芸員ほか
(3)参考人 なし
(4)オブザーバー 浅野文化庁文化財調査官、松尾長崎県教育庁学芸文化課文化財保護主事
(5)傍聴人 2人
【会長】
ただ今から第4回長崎原爆遺跡調査検討委員会を開催します。
「(1)前回会議での意見・指摘等を受けて」について、事務局の説明を求めます。
【事務局】
○長崎原爆遺跡については原爆資料館を中心にいわゆる目に見えないバリアを張ったような遺構という形で捉え、非人道的な原爆投下に結び付けていく必要があり、4つの遺構だけで語ることはできないという委員からのご指摘については、今後しっかり調査を行うことを検討しているが、実施方法や実施範囲など課題も多いため、次年度以降の課題としたい。
○下の川などの悲惨な惨状が起こった場所の地形などについて検討することができないかという委員からのご指摘については、爆心地付近の下の川では、正確な場所はわからないが家屋解体作業で派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒が爆死するという惨状が起こっており、爆心地公園と同公園から下の川に階段を降りた場所にある爆心地の地層の展示や親水護岸も含めて長崎原爆遺跡としての検討範囲があるのではないかと考えている。
○被爆の実相や原爆がもたらした被害に関して「痕跡」という表現が正しいか考える必要があるという委員のご指摘については、被爆した状況を想起させることができない遺構は保存されにくい傾向があり今後も解体を進めてしまうと長崎原爆というのはいよいよ狭い範囲でしか語ることができなくなってしまうという指摘もあり、被爆による損傷が見えるのは非常に重要なことではあるが、見えにくいものや現在見えていないものであっても調査を行うにつれて被爆の影響が判明したり被爆写真や映像と比較することで事実を読み解くことができることも考えられるので、「痕跡」という言い方だけに捉われないようにしたい。
○旧長崎医科大学門柱について現況の詳細な調査が必要という委員のご指摘については、今年度確認調査を予定をしており、その際に基礎の状況や現在の損傷の状況などの調査も行いたい。
○被爆以前から建造物としてあって年数が経過し被爆の痕跡の一部が薄れつつあるものについても整理したほうがよいという委員のご指摘について、長崎市は被爆建造物等の悉皆調査を平成5年から3か年で行ったが、実施から20年以上経つ中で新たな被爆建造物等が発見されることもあれば、解体されたものや被爆の痕跡が見えにくくなっているものもある。今後行う悉皆調査の中で、改めて既存の建造物等についても評価していく必要があると考えている。
○被爆の状況がどうであったのか見学者にわかりやすく伝えるためには、基礎情報を取ったうえで専門の立場の者が説明を考えることが必要との委員のご意見については、現在、事務局で基礎情報を収集・整理している段階で、その成果が調査報告書になると考えており、その報告書を基盤として今後、遺跡の活用のための方策を検討していきたい。
○街がきれいになっていくことを連想させる「復興」よりも、住民の方々が被爆という体験を経てある種の痛みを抱えながら戦後に向かっていくという複雑な過程を想像させる適当な言葉を考える必要があるという委員のご指摘については、大きな損傷を受けた建物や工作物であってもそれを利用せざるを得ない人々の歩みのなかで長崎原爆遺跡の大半は残されてきたという経緯があり、そのような意味で被爆後の歴史的な営みを語る必要性もあるが、第一義的には被爆の惨状が遺跡でどう表現できるのか証拠を積み重ねていきたい。
○長崎原爆遺跡は、屋根のない博物館という意味合いで人と物とそれぞれの遺跡を有機的に結合させていくことが重要で、そのために原爆落下中心地の公園をこの中に入れなくていいのか、原爆遺跡としては落下中心地を何らかの形であげないといけないのではないかという委員のご指摘については、爆心地が被爆した地層に見られるように被爆の痕跡を内包した遺跡であること、原爆の被害の起点という観点で象徴的でもあり、公園として保存してきた点においても重要と考えている。
○山王神社には被爆前後の状態を再現できるものが遺されており詳細な調査を実施する必要がある、他の遺跡は面的に捉えることが非常に難しいので山王神社で取り上げればまた違う視点で後世に伝えることができるのではないかという委員のご意見については、ヒアリング調査により遺跡の分布について一定の指標となるような図面を作成できている。また、山王神社の被爆関係写真も10枚程度存在しており、今後これらのデータを元にまずは詳細な調査を行って面的な取り上げについても検討していきたい。
○旧長崎医科大学の配電室の周囲の崖には瓦礫が大量に包含されており、配電室自体も被爆写真と見比べることで原爆被爆のときにこの遺構だけが残ったということがよくわかる、門柱に加え配電室も長崎原爆遺跡として対象に加えてよいのではないかとの委員のご指摘については、門柱の歴史だけでなく長崎医科大学そのものの歴史の中で門柱自体の価値を理解する必要があり、長崎医科大学そのものの被爆を語る上で配電室の存在は欠くことができないので、それらも含めて検討していきたい。
○長崎原爆遺跡としてほかに取り上げるべきものはないのかという文化庁調査官のご指摘については、今後、悉皆調査を行うことを検討する。
○各遺跡の規模が小さい、もっと他に取り上げるべき遺跡があるのではないか、現在残されている遺構だけでなくその母体となる遺跡自体を調査すべき、また、それを誰が管理しているのかということも加えるべきという文化庁調査官のご指摘については、現在残されている被爆建造物等だけではなく、その状況を生み出す背景となった土地についても調査を加えていきたい。また、これまでの調査で判明した内容から、全体を見据えた視点でもう一度作図を行ない、検討していただけるよう準備を進めている。
○長崎の原爆の実態を表現するのにどれとどれが相応しいかという議論を含めて、最終的にはこれを配慮する遺跡として守っていくのがいいのではないのかというような議論に向かっていってほしいという文化庁調査官のご指摘については、委員会で議論していただけるようこれまで作成した全ての図面、ヒアリングの結果、コンクリート調査結果を今回の材料としてまずご提示する。
○山王神社二の鳥居の少し下にある灯籠の台座は原爆の熱線の影響を受けているのではないかという文化庁調査官の指摘については、現在、写真資料を収集・整理しており、シミュレーション等をできるかどうかも含めて、専門家と協力して調査をしたい。
○写真の分析も非常に重要であり分析結果を付加するようにとの文化庁調査官のご指摘については、作業を順次進めており、城山小学校については一定のまとまりが出てきているため今回の委員会で報告し、その他についても次回報告する。
・資料「長崎原爆・爆心地に関する概要」説明
長崎原爆遺跡には爆心地を何らかの形で取り上げなければならないのではないかという会長からの指摘事項に関し、過去の調査資料をご報告する。
まず、「爆心地」の言葉自体は辞書的な意味としては爆撃された地域の中心という意味があるが、原子爆弾被害に関して言えば、原子爆弾が炸裂した空中点の直下の地点であると考えている。長崎原爆の爆心地は、旧番地で長崎市松山町171番地、現在は長崎市松山町2400-3で、今は爆心地公園になっている。
もともとこの場所は「高見別荘」と呼ばれていた別荘で、広さ3800平米、赤レンガや樹木で囲まれ、北側にテニスコートがあった。そのような場所を三菱造船所が女子挺身隊の寮として買収したが、まだ利用される前で、形態としては別荘の状態で被爆したと考えられている。ちょうどテニスコートの位置が爆心地だと言われている。
これ(「原爆被災復元調査事業報告書(別冊)被災地復元図」松山町(爆心地)被災直前の頁)は、昭和45年から10年ほどかけて爆心地付近の被爆前の状況を調査した図で、ちょうど真ん中に「爆心地」があり、その記述を囲む逆三角形の場所が別荘の敷地になる。
<当時の爆心地の様子がわかる写真を説明>
「爆心地」という言葉自体が持つ意味の広がりとして、爆心地のみに起こる破壊現象が一つ挙げられる。また、一般に原子爆弾の被害の程度は爆心地からの距離に大きく影響するので、原子爆弾被害を科学的に検討するためには爆心地がどこなのか知ることが非常に重要。また、原子爆弾がもたらした巨大な破壊の起点を象徴する場所という意味合いを持っている。
爆心地に起こった破壊現象として、まず地表面を約3000~4000度にしたという熱線が到達している。また、爆風は秒速440メートルという状態。衝撃波や爆風は真上からやってくるので、木や電柱が焦げてはいるものの直立して残るという現象が起こる。
爆心地の地下の構造については、長岡先生の「長崎市原爆落下中心地碑南東に現れた1945原爆堆積物」という著書に記されている。下の川の親水護岸工事に伴って露出した地層について調査が行われ、下から5番目の層に熱線の影響とみられる高温酸化し溶結した表土や発泡した瓦、炭化木片などが観察され、原子爆弾の被爆によって形成されたものと結論付けられている。
爆心地の推定は被爆直後から行われていた。8月10日付で長崎県知事が内務省宛に出した空襲被害の報告によると、「岩川町、坂本町、松山町、浜口町、山里町、岡町、橋口町、大橋町、竹ノ久保町、城山町、目覚町、銭座町一帯ハ投下爆弾(500米上空ニテ炸裂)ノ直下地域」と考えられていた。9月3日に長崎県が行なった原子爆弾威力調査では、「長崎市ニ投下セル新型爆弾炸裂ノ中心点 松山町、駒場町ノ上空ト推定サル」とされ、現在のラクビー・サッカー場や市民プールの上空のあたりまで絞り込まれていた。
他の視点で、九州帝大の篠原先生の書かれたものによれば、篠原先生は要塞司令部のほうからこの爆心地と言われたところに行って土を採取し放射線の有無を調べた。その後の回想で爆心地と言われていたところは今の爆心地よりやや北に寄っていたということで、恐らく今の平和公園の祈念像の辺り、もしくはその下辺りで土を採取されたのではないか。そのあたりが8月13日には爆心地と言われていたものと推測できる。
また、藤田哲也博士という明治工業専門学校の先生が中心となって長崎で原爆の調査をされ、10月時点での調査内容が地図(MAP OF URAGAMI Before bombing/Change of the city after bombing)にまとめられている。下の川の松山橋から少し下った場所に「Centre」と明記されている。この場所は、他のどの調査でも指定しているものがないため、恐らく明治工業専門学校の原爆調査団が結論付けたセンターということでいいのではないか。
この図(「Centre」を中心に同心円状に赤く濃淡を付けられた地図)が恐らく、爆風ないし衝撃波の被害の程度を推定するために作られた図で、爆心地は木々が直立しているので(赤色を)少し薄く表現されていて、500m離れた地点のエリアが濃い赤い色で塗られている。この辺りが一番衝撃波の影響を受けている場所と今言われている場所なので、その部分が(赤色を)非常に濃く表現されているところが注目される資料になる。
爆心地の決定で一定のコンセンサスを得ているものが学術研究会議の原爆災害調査特別委員会が行なったもので、木村一浩さんらが行なった「原子爆弾の爆発地点および火球の大きさ」という報告の中にある。原子爆弾による熱線がある物体の表面を焦がす際に遮蔽物がある場合に生じる影を用いて爆心地と爆発点を求めたもので、浦上天主堂、長崎医科大学付属医院、井樋の口の交番所のそれぞれの影から伸ばした線の交差する場所が爆心点であろうと報告されている。
爆心地は、その後も他の調査で推定がされているが、概ね原爆落下中心地碑の周りで収まっていると考えてよいのではないか。少なくとも爆心地公園の辺りがその場所であるということは堅いと思われる。
爆心地を示す目印となるようなものは、現在までに7代存在している。爆心地が顕在化されているのは長崎市の特徴であり、広島市の場合は島病院のビルの中が爆心地でそのビルの前に説明板が一つあるだけである。
<スライドの写真を使って爆心地を表わす標柱等の変遷を説明>
爆心地を中心とした地域の土地利用について、アメリカのメリーランド大学プランゲ文庫が所蔵する写真のキャプションに原爆落下中心地碑のところで野菜がよく育っているという内容が記されている。手前には野菜をつくっている人、奥には矢羽型の原爆落下中心地碑が写っている。
1948年の記事とともに添付されていた写真からは、爆心地が公園化され畑などがなくなってしまっている状況がわかる。この時点で、恐らく公有化がそれなりに進んでいるのではないか。
米国国立公文書館所蔵の1950年に撮られた写真右奥には給水タンクがある。現在、原爆資料館内に展示しているものであるが、爆心地がこの時点で大型の被爆遺構を寄せる場所でもあったことが読み取れる。他に大橋の橋塔、土台から曲がった火の見櫓、三菱の兵器の茂里町の工場のらせん階段といった大型資料が、1996年以降原爆資料館地下2階に移設されるまで原爆落下中心地に置かれていた。
平和公園は現在、文化財としては登録記念物の名勝関係として登録されている。そこには爆心地、長崎刑務所浦上刑務支所および浦上天主堂の遺壁など、原爆投下の物証となる歴史的意義を有する場所であるとともに、世界に向けて核兵器の禁止と世界平和の実現を呼びかける場所として記念的な意義をもつ長崎の都市公園という位置付けがなされている。
まとめとして、爆心地の地点は調査によって異なるが、概ね原爆落下中心地標の付近ということでは共通している。長崎市における爆心地は、1948年頃公有化が進み公園となったと考えられる。長崎市が公園として爆心地を保存してきたことに意味があると考えている。また、被爆遺構、遺物が集積する場所としての機能もあった。原爆被爆の象徴として爆心地の標があり、それが7代目となった今もそこにあるということが言える。
【会長】
ただ今事務局から前回会議での指摘事項とその対応策について説明がありましたが、まずこの点につきましてご質問等何かございませんでしょうか。別にございませんか。
それでは、前回会議の指摘事項につきましては、事務局の説明どおり今後進めていっていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
次に、いわゆる長崎原爆の爆心地に関して事務局からわかりやすく変遷の説明がありました。これを原爆遺跡の中に入れるべきではないかというのは私の私的な意見でございましたが、この件につきまして委員の皆様方のご見解をお願いしたいと思います。
【委員】
前から何度か議論になっていると思うのですが、長崎の被爆の遺跡の特徴というのは、何か一個に象徴させるというよりは、例えば現在挙がっている4つの対象を見ていったときに、被爆というものの構造の全体像を示していく、しかもある面で言えば長崎という街全体でもって被爆ということを示していく、そういう形にこれはわざとしてきたと言うよりいろいろな経緯があってそうなってきて今があるということになると思います。その辺りはまた後の議論でも少し考えてみたいと思いますが、爆心地そのものについては何をもって遺構とするのかということはいろいろと議論というか工夫が必要になってくるとは思いますが、原則的な考え方として言えば、現在4つの遺構を我々は中心的な対象として考えているわけですが、それらを構造的につないでいくという、それ全体が一定の被爆とは何なのかその構造を把握する一つのセットになっているという意味においては、この遺跡の議論を考える上で大変重要な対象と考えるところです。どういう形でどの部分をということはもう少し詳細な検討が必要になると思いますが、大きな考え方として爆心地は入ってくるということも重要性としては高いだろうと思っています。
【委員】
今までは個々の遺跡について過去3回の委員会で議論し、事務局からその調査の成果については適時提出されてきたわけですが、その原爆遺跡という一つの物件を取り上げて中心となるものが見当たらないと以前から感じておりました。前回、会長も文化庁の主任調査官もそういう発言をされていましたが、この4つの遺跡・遺物についてはほぼ調査が済んで大きな情報源となり得ますが、長崎の原爆というのを集約するような中心地、その投下地点というのが今までなかったのがなぜだったのかという感じを持っているのですが、どういうことだったのでしょうか。
【事務局】
今までの長崎原爆の調査・検討につきましては、もともと平成5年から行いました被爆建造物等という建物や橋、樹木などの調査結果をもとに遺跡の選定を行っておりましたので、そういうものがない爆心地という場所が少し事務局側で欠けていたというところがあったと思います。
【委員】
そういう意味で、今回その爆心地というのが対象物件になるという調査の成果が出ていますし、過去のいろんな調査においてもこのことは論じられているので、今回の長崎の原爆遺跡の中心と位置付けるものがようやくこれで見つかったという感がします。是非これは取り上げて欲しいと思います。
【委員】
今までの事務局からの説明と他の委員の議論と同じになりますが、今まで取り上げてきた4つの遺跡の中心となるものとして、また、この4つの遺跡が残している今の現状をもたらすもととなった原爆の爆心地というものが当然いろいろ考える上で重要になってきますので、爆心地を取り上げることには私も当然賛成をしております。
【会長】
ただ今3人の委員の皆様に意見を出していただきましたが、今後原爆遺跡を考える上でも起点になる、それで先ほど事務局説明がありましたように、ものを中心に考えてきましたが、ものから線に、あるいは面にと広げていく中においても中心的な役割を果たすのではないかと思います。
そこで、委員会としまして、今まで挙げてきた4遺跡に加えて、原爆落下中心地を調査研究の対象にするということで以後進めていただきますよう指摘しますので、よろしくお願いします。
他に何かございませんか。
【委員】
爆心地と4つの遺跡はこれで結びついてくるわけですが、名称はどのようになるのでしょうか。
今までは4物件だけでいろいろな議論を進めてきて、新たに中心となるべき爆心地という表現が出てきましたので、原爆遺跡にもう一つ前のほうにプラスアルファされる表現が出てくるのではないかという感じがするのですが。
【事務局】
今までは4つの遺跡について調査やご報告をしてきましたが、新たに爆心地を今後検討の対象に挙げて遺跡の対象として考えていくということで、今後の名称について事務局の方でいくつか案を作った上で次回の委員会にお諮りし、議論していただいた上で決定していくという形をとりたいと考えておりますが、いかがでしょうか。
【会長】
ただ今の事務局の見解でいかがでしょうか。
【委員】
はい、結構です。
【会長】
他の委員の皆様もよろしいですか。それでは今後、調査・研究の進展によっては拡大するようなことも考えられますので、いくつかのことを予測されながら事務局で名称等については考えて次回の会議に出していただくということで、よろしくお願いいたします。
他に何かございませんか。先ほど指摘のあった標柱はよろしいですか。
【委員】
先ほど7代の標柱の説明がありましたが、この標柱が所在する地点は全く変わっていないのですか。同一地点で7代変わったという意味で捉えていいのでしょうか。
【事務局】
そこはまだ写真を全部分析できているわけではないのですが、初代のものと特に2代目・3代目のものは、被爆写真を見る限りにおいては少し移動があります。
【委員】
しかし、大きくは変わらないということですね。
【事務局】
はい、高見別荘のエリアの中の北部ということに関しては、恐らく変わりがありません。
【委員】
長崎の人たちが長くこの場所をそういう意味で検証しておられますので、長崎市民の平和に対するDNAとしてきちんとした形でそれを後世にも伝えて欲しいと思います。そこから長崎の世界に対する平和の願いというものが発信されていくわけですから。まあ、上空測量して爆発地点を捉えたのであればいいのでしょうけれども、いろいろな状況証拠でその場所を選定しているわけですから、少し外れる可能性があるのでしょうが、今はあそこだという形で伝承されてきた結果というのは大事にしてあげたいという感じがします。
【会長】
ありがとうございます。ほかに何かございませんでしょうか。
恐らく、今まで出てきている場所から余程距離的に離れるということはもうないでしょうから、少なくとも公有地化されているあの公園の中の標柱周辺でまとまるだろうという気はしますので、そちらのほうは今後の学問的な研究成果によってということで、一応原爆落下中心地を遺跡として、そして今後対象に入れるということは支障ないということで、よろしいですね。
【委員】
広島ではどこが原爆の投下地点であると明確に決定されているのですか。
【委員】
広島の場合どうやってその場所を確定したのか、私もそのプロセスを知らないのですが、ただ通説的には病院の前ということになっています。
それで、ついでですのでさっきちょっと言いかけた話を少しだけさせていただきますと、やはり広島の場合、原爆ドームというのが非常に象徴的な存在になっていて世界遺産までなったわけですが、やはり原爆ドームの持っている意味というのは、被爆ということをものとして象徴しているという印象が非常に強いわけです。なので、広島で爆心地が特段、もちろん案内板は立っていますが、特段何かそこをどうしようということには必ずしもならないというのは、やはり原爆というものの後世への伝え方の問題というか、あれはあれで一つのやり方だと思うのです。
長崎に関して言うと、やはり全体構造として示していくというやり方がいちばんいいだろうと。昔「エコミュージアム」という言葉があって、村とか街全体が博物館であるというそういう発想をしたらどうかというのが、もちろんこれは被爆ということ、あるいは戦争ということと必ずしも連動しているわけではありませんが、またその発想が出てきたことがありました。90年代ぐらいだったと思います。
長崎の場合は、ですから恐らく今後も爆心地とは何かという議論も少し続くだろうとは思いますが、爆心地を大事にしながら全体構造を示すということがすごく重要で、広島のどう決まったかというプロセスの話でなくて申し訳ないのですが、恐らく広島と長崎では我々にとっての爆心地の持つ位置付けが全然違うだろうという感じはしました。
【会長】
爆心地がどこかということについては今後の研究で変わる可能性はあるかもしれませんが、少なくともこの委員会では、現時点においては原子爆弾落下中心地碑が立っているところが爆心地ということで今後進めていく。そして、これが変わるとすれば、それを動かすだけの学術的な資料その他が出てきた時にはじめて検討するということでよろしいですか。
<委員了承>
【会長】
他に何かございませんか。ないようでしたら、次に「調査報告書の目次について」の事務局の説明を求めます。
【事務局】
○原爆遺跡の調査報告書に関しては、4章構成としたい。
○第1章は、長崎市への原爆投下の経緯、被害の概要、爆建造物等の残存状況について、今までの事務局の積み重ねや先行研究を整理して述べたい。
○第2章は、4遺跡を節ごとに数値的なもの、土地利用の変遷、被爆関係写真の分析、各遺跡の特徴ある調査をまとめていきたい。
○第3章は、4遺跡に加えてご議論いただいた爆心地についてまとめ、そして今は見つかっていないものについて何らか研究する必要もあると思いますので、それについて1節設けることを検討している。
○第4章では、総括として2章・3章についてまとめた上で調査成果を端的に述べ、遺跡の歴史的な意義・価値についてまとめたい。
【会長】
ただ今事務局から、報告書の目次と各章で取り上げる文言を提案されましたが、これにつきまして委員の皆様方いかがでしょうか。
私から最初に発言して申し訳ありません。どうされるか知りませんが、第2章で4遺跡をそれぞれ取り上げてその次に第3章で爆心地を取り上げるというのは、これはどうなのでしょう。爆心地は、基本的には第2章の中に入ったほうがすっきりするのではないかという気がしますが。
【委員】
そうなるでしょうね。
【会長】
原爆落下中心地が遺跡として4遺跡と並列な関係であれば、そのほうがいいでしょうね。
【委員】
爆心地が最初に論じられて、次に4遺跡に触れるという順序になりますね。
【会長】
そうですね。具体的な順序は後で検討するにしても、並列の関係であれば3章ですね。
【委員】
そうですね。
【会長】
そういうことでよろしいですか。
【事務局】
はい、大丈夫です。
【委員】
それぞれの節の構成についてですが、これはこうしろということではなく、もし意図があったら考え方をお聞きしたいのですが、例えば第1節の城山国民学校については第3項で校舎の現況調査が入っていて、第3節の長崎医科大の門柱についても2項の4で門柱の損傷調査が入っている。それに対して第2節の浦上天主堂と第4節の山王神社について、現況に関わる、現在の状態に即した項目が入っていないのですが、これは敢えてそうしたのでしょうか。そこには何か理由があるのでしょうか。
【事務局】
第2節と第4節は、確かに現況に関わる部分が抜け落ちております。第4節の山王神社に関しては、平成10年に基礎の構造まで含めて調査をしてその結果がまとまっておりますので、これを過去に行われた調査の中で一定整理ができないかと考えております。平成10年以降、掘削等が行われておりませんので、平成10年の当時のものがそのまま使えると考えております。
浦上天主堂に関しては、現況の測量等から鐘楼のどの部分までは埋まっていてどの程度残っているのかという推定図を作成しており、そういうものを使って土地利用の中で説明していくということを考えておりますので、項目として第2節の中では挙げておりません。
【委員】
それぞれの調査成果、調査結果の新しさ、調査の進展度合があると思いますので、報告書の体裁として逆にパラレルにそれぞれ章をつくっていっても、結果としてバランスが悪くなるという可能性もあると思うので、そこは具体的なデータに基づいて判断していただければと思います。
ただ、その段階、段階でつくっていく報告書というのは、ある種の総集編であってほしいというところはあります。時間というのは簡単に20年、30年と経ってしまいますし、その間に人が入れ替わっていく中で後でいろいろ検討しようという時に、また手掛かりがわからなくなっていく可能性は無きにしも非ずなので、項を立てるかどうかはともかく後で見てこの時点のものは全部入っているのが一番理想だと思います。
やり方はお任せしますが配慮をしていただいて、実際の編集をしながらそれぞれ2節、4節の中に項を立てるという判断をしていただいてももちろん結構です。この目次は、今日これで完全にフィックスというわけではないですよね。
【会長】
ないです。
【委員】
ですよね。だから、ちょっとご配慮いただきながら、調査と同時に編集もしていただけたらと思います。
【事務局】
仰るとおり、今後この報告書を見て追加で調査をしていく世代というのが現れたり、今後、当然城山小学校も含めて遺跡を掘るということは遺跡を壊しているわけですので、それを当然今後追加で検証していくという作業ができるようなかたちで報告書を作っていくためにも、現況についてきちんと記録するというところをやっていきたいと思っています。
【会長】
私も委員と同じ意見ですが、過去にやった調査例があると言われても、過去の例が今日においてもそのまま継承できるのか。局部的なものではなく、大きい目で見た時にどう変わったのか現在の状況と当時の状況とを比較する形で触れていただいたほうが理解しやすい。これは、統一していただきたいという気がします。
他にいかがですか。詳細なところは今後も変えるにしても、全体的にこの章立ての流れでやっていただくということでよろしいでしょうか。
<委員了承>
【会長】
そういう流れですので、次に詳細な部分につきまして、城山国民学校の土地利用の変遷について事務局の説明を求めます。
【事務局】
旧城山国民学校に関する土地利用の変遷についてまとめている。目的としては、調査報告書に掲載する旧城山国民学校について歴史的な部分、数値的な部分を整理したうえで、現在まで行っている調査がどのような位置付けなのか、最終的には遺跡がどのような価値を持っているのかを考えるための一助とするもの。
城山国民学校が開校する大正12年までの時期、そこから原爆被爆までの時期、原爆被爆の状況、及び復興から現在に至るまでの時期のそれぞれの状況について述べていきたい。
国民学校が開校する前の城山地区は、江戸時代に浦上村淵と呼ばれていた部分の寺野郷という場所だった。それが明治に入って、浦上村淵の寺野郷以外は小榊村になったり長崎市に編入されたりでこの寺野郷のみが浦上山里村に編入された。浦上山里村は、浦上天主堂の地域を中心にしたよく知られているキリシタンの村だった。その後大正9年に長崎市に編入され、学校の辺りが城山町1丁目となった。もともとキリシタン集落だった浦上山里村とは川を隔てた場所にあったので、他の地域とは少しニュアンスの違う場所になった。
長崎市に編入されてから、初の都市計画区域として市営住宅が完成し、城山尋常小学校が開校した。それはいずれも大正12年となっている。その頃は、城山小学校の校庭の東側は市の中央部から集められる塵芥の集積所があったということと、今はもう競輪場はないがラグビー・サッカー場のある辺りに牛馬のと殺場があったと1回生の方が述べており、校舎の近くには人家らしい人家もない寂しい場所だった。
〔プロジェクターを使って城山国民学校の開校後間もない頃の写真、昭和12年に北校舎が建てられた頃の写真、被爆直前・直後の写真について説明〕
○現在の体育館の場所は、元は小高い盛土があり木々がたくさんある場所だった。
○戦時中になると校舎に迷彩が施されていた。
○被爆直前の頃の運動場には、畑として芋などが植えられていたと言われている。
○原爆被爆の状況としては、運動場に学徒の動員の方が掘っていた防空壕の跡があり、ここが一番生き残られた方の数が多い場所だった。南校舎3階は、全員の方が亡くなられて被爆の状況がわからないほど甚大な被害を受けた場所だった。
○被爆しその後の風雨により崩れた南校舎東端は、藤田哲也博士の資料の中の写真から被爆直後は外見は留めていたとことがわかる。
○米国国立公文書館で昨年度見つけた資料からは、北校舎の壁が2階と3階の間の部分から西側に少し倒れている様子が確認できる。
○火葬跡については、米軍が南側校舎と並行に遺骨が散乱している様子を撮影している。
○階段棟屋上では内部の扉が飛ばされ、北校舎屋上では亀裂が入って陥没している。
○城山小学校は爆心地からの距離が近いこともあり、日本側もアメリカ側も非常に関心を高く持って調査をしている場所である。
○南校舎は鉄筋コンクリート建てと言われてはいるものの、レンガで構成した部分の外側に鉄筋コンクリートがある。
○城山小学校の建築物内の人的被害については、日本側の調査記録が残っている。その記録に、生き残った荒川先生が一人ずつ名前を書き込んだ記録が作成されている。
○校庭の遺骨は、昭和20年12月の慰霊祭の時にも残っていたという記録があるし、引揚者向けに校舎を住宅に転用する時にも遺体が発見されたという記事もあるので、なかなか片付けというのは進んでいなかったことがわかる。また、城山小学校の校舎は、昭和20年11月から稲佐国民学校で教育を再開した後に休校となっているため、昭和23年に復校するまで利用されることがなかった。
〔プロジェクターを使って復興から現在に至るまでの時期の写真を説明〕
○復校後、第1回目の入学式は修復が終わっていない北校舎で行ったという記録が残されており、これが城山小学校の平和教育の原点として述べられている。同じ時に、木造校舎が完成。1949年には南側の校舎を修復、51年には北側の校舎を修復したとされている。
○1949年には、原爆殉難者の供養塔が建てられている。これは校庭で人骨が発見されたり、遺品が発見されることがあったためで、その後の体育館の建築等の関係で移設され、最終的に防空壕跡前に慰霊碑が置かれている。
○1951年には、城山小学校の平和のシンボルとして少年平和像が建てられた。今も城山小学校の子どもたちはこの像の前を通る度におじきをしている。
○1957年の航空写真からは、南校舎は損傷の大きかった部分を撤去して使われていたことがわかる。
○1966年の航空写真からは、北校舎3階の丸窓が四角の窓に変わっていることがわかるので、恐らく被爆直後の修復の作業で何らかの手を入れたのではないかと思うが、修復の内容を示すものが残っていないため、写真等から補足できる部分を補足していきたい。また、この時期には体育館が完成している。
○1975年の航空写真からはプールの完成が、1981年の写真からは、校舎が解体されて少しずつ新しい校舎に置き換わり始めていることがわかる。
○1992年の写真からは、北側校舎も階段棟を残して解体され、集会室があるという今の配置に近い形になっていることがわかる。
これらのことを土地の変遷の記録として図化していきたい。
まとめとして、土地利用の変遷に関しては開校前の記録がないが、崖下が塵芥の集積所であったことから、恐らくあまり大きな構造物は存在していなかったのではないかと思われる。確認調査においても、炭化物層の直下の層は地山だったので何らかの建築物というのは残っていないのではないかと思われる。
北側校舎建築以前の校舎敷地は、南側よりも少しレベルが下がっていたことが写真から読み取れるため、恐らく校舎を建てる際に盛土をしたのではないかということがわかる。
校舎の形状に関しては概ね変化がなく、修復の時も旧校舎の形状に似たような意匠をつけて復旧している様子も読み取れる。
人骨の出土を機に慰霊塔が建てられ、現在は防空壕跡の場所に慰霊碑がある。
以上で報告を終わりたい。
【委員】
〔プロジェクターを使って説明〕
それでは、旧城山国民学校校舎コンクリート調査結果の概要ということで、昨年度後半に事務局及び受託業者で行った城山国民学校の現在残っている部分のコンクリートの現況調査及び被爆の痕跡等が残っていないかの調査について、私から説明させていただきます。
調査資料が膨大なので、そのエッセンス部分を説明したいと思います。
全体的な中身としては、創建時のコンクリートが現在の校舎にどの程度あるのかという調査の結果、それからコンクリートの損傷状況ということで、被爆の影響もありますし建設から80年近く経って経年変化等もありますので、ひび割れ、浮き、剥離・剥落がどの程度なのかという調査の結果、それからコンクリートの材料的な、例えば強度であったり原爆による熱線やそれに伴う火災による影響が残っているのか等についての調査結果について説明します。また、これら3つの調査結果を含めて現在総括的に言えることをお話ししていきたいと思います。
まず、「創建時のコンクリートの残存状況」ということで、現在残っているのが北校舎の階段棟になりますが、その階段棟の今までの工事履歴について簡単に説明していきます。
城山国民学校としては、大正12年に南校舎が建てられて始まっていますが、現在平和祈念館として残っている被爆校舎は昭和12年に建てられた北校舎の階段棟の部分になるので、今残っているオリジナルなコンクリートというのは、この昭和12年につくられたものということになります。
それから8年後に原爆により被災し、その後修復工事が南校舎から始まって北校舎は昭和24年から26年辺りにされたということです。ただし、この北校舎の修復工事がどのような工事だったのか詳細記録がないので、元々の昭和12年の部分と修復工事の部分がどのように違うのか区別をつけるのはなかなか難しいところもありますが、いろいろな状況証拠等から区別した部分もありますので、それについては後ほど説明します。
昭和53年頃になると、結構時間が経っていますので危険箇所の撤去工事、あるいは北校舎全体の解体工事が2回に分けて行われてどうしても一部分を切り放すことになりますので、開口部を閉じるような工事がされたり、あるいは現在の形になるときに補強工事として壁が築造されたり柱・梁の補強工事がされたりしています。それから、現在の平和祈念館として開館する直前の整備工事や、それに合わせて壁や天井でコンクリートの落ちそうな部分を落としてといった補修工事がされています。
従って現存校舎のコンクリート関係工事としては、創建当時、戦後すぐの修復、昭和59年、60年頃の補強工事、それから平成10年の補修工事に大きく分かれます。
現在残っている部分が北校舎の階段棟で、北側及び西側に一部教室部分も残っているような形になります。被爆直後の写真から見た範囲では大きな損傷は認められないような部分が今残っているような形になります。
米軍の爆撃調査団の報告書に掲載された立面図から、被爆当時はひび割れが一部あったような箇所もあり修復工事でどうなったのかがまだはっきりしませんが、比較的被害が少ない部分が現在残っているという形になります。
○オリジナルのコンクリート、修復時のコンクリート、昭和後半の補強工事、平成に入ってからの補修工事の部分についておおよその区別ができたことを図示。オリジナルのコンクリート又は戦後すぐの修復時のコンクリートが大部分残っており、全体としてもともとのコンクリートは残したままそれに追加する形で補強工事がされていることを説明。
○ただし、補強時のコンクリートがもともとのオリジナルコンクリートを隠すような形で施工されているので、その部分は被爆の痕跡が見えない状況になっている。
○オリジナルの創建時のコンクリートと戦後補修工事の際に施工されたコンクリートについては、型枠を使った施工状況の違い、劣化の程度とそれに伴う補修の程度の違いから区別した。この状況以外にも、2階の天井についてはコンクリートのコアを採取して床の厚さを検討してみると、オリジナルと思われるコンクリートは設計図どおりの厚みとなっていたが、修復したと思われる箇所はオリジナルよりも若干薄かったので、そのことも含め区別した。
次が「コンクリートの損傷状況」になります。この損傷状況には先ほど述べましたように、被爆の影響による損傷を見つけようというのと、現在の経年劣化によるコンクリートの状況がどうなのかという両方を含めたものの話になります。建物の内部と外部に分けて代表例を説明していきたいと思います。
○1階から2階に向かう階段の西側の壁で、焦げた木レンガの周りでは、コンクリートや表面のモルタルが浮いて、剥離が進んでいる状況が見受けられた。
○2階西側の展示室では、1階、2階の天井にかなり補修されているのがはっきりした。このような補修痕を被爆の痕跡と誤って認識している見学者もいるようなので、それらをはっきり伝えるのも今後必要になってくると思う。補修した部分やその周りについても、かなり劣化が認められる状況になるため、今後は平和祈念館入場者の安全対策も考える必要があるのではないか。
○建物の外側の西面では、校舎が切断され昭和後半につくられた壁がある。柱・梁はオリジナルな部分で表面には補修がされているが、それが一部剥げ落ちていたり鉄筋が見えたりということで梁や柱部分の劣化が徐々に見え始めている状況である。補強された壁についてもひび割れが見られる。北西面でも同様の状況にある。
北面についても校舎から切断された部分で壁が新たに築造され、柱・梁はオリジナルのものであるが、梁の表面部分のコンクリートや補修した部分が落ちて鉄筋が見えているような状態になる。特に建物外部は雨などの影響もあって鉄筋の腐食が進んでいると思われるので、できるだけ早期の対応が必要な部分であることがわかる。
爆心地に向いているほとんど壁の状態の南東面については、ひび割れや目視ではわからない浮きを今回赤外線を使って調査し範囲が特定できており、もともとあったコンクリート表面に恐らく戦後に塗られたと思われる2センチ程度のモルタルのかなりの部分が浮いている状況にある。
○外側については大部分がフェンスで囲まれていて、そこに例えばこれらのモルタル片が落ちてきたとしても人に当たる可能性は殆ど無いとは思われるが、建物自体の耐久性を考えると徐々に対応を考えていく必要がある。また、文化財としての保存や活用を考えていく上で対応・対策を今後考えていく必要があるという基礎的な現状が把握できたことになると思う。
次が「コンクリートの材料特性」として、被爆校舎の柱、外側・内側の壁、梁、スラブのコンクリートから12本のコア抜きして調査した結果について簡単に説明します。
○コンクリートとしてどの程度の強度があるのかについて、一部は昨年10月に遺構の範囲調査で発見された基礎部分からコア抜きした試料について試験をしており、基礎部分については地中にあったということでかなり大きな強度を持っているということがわかる。また、昭和後半につくられた補強部分の壁もかなり高い強度になる。オリジナルまたは戦後すぐの補修工事で施工されたコンクリートは地中や補強された箇所に比べ若干低めであるが、当時のコンクリートとしてはほぼ標準的な強度になる。
○コンクリート建築物の圧縮強度の一つの目安として13.5という値があるが、一部少し下回っている値はあるが、総じてその値を超える強度を持っていることが今回確認された。
○被爆による材料的な変質の調査としてコンクリートの中性化の試験を行った。
もともとコンクリートは高いアルカリ性を有しているが、例えば気中のCO2による炭酸化によって中性に近くなったり、原爆の熱線やそれに伴う火災などの熱を受けることでアルカリ性が低下して中性に近くなる。現在の旧城山国民学校被爆校舎では、この二つは両方生じていると考えられるので区別をつけるのはなかなか難しいところはあるが、受熱をしている部分がどのあたりなのか、それが残っているのかどうかという観点で見るべき結果と思う。
中性化の程度は一般的に中性化速度係数で表す。それはなぜかといえば、補強壁とオリジナル部分で使われている年数が違い単に中性化がどの程度進んでいるかという指標では比較できないので、中性化速度係数という関係式の係数で表す。この係数が大きいほど中性化が進みやすいコンクリートである。炭化した木れんが近くにある壁の部分であったりがかなり大きな中性化速度係数になっている。3階の柱の辺りも中性化速度係数が大きくなっているので、単純にこれだけで言うことはできないが、これほど大きな中性化速度係数になるというのは通常の二酸化炭素による炭酸化による中性化のみでは考えにくいので、熱を受けたことによる中性化も合わせて受けたことによって、より中性化が進んでいる状況ではないかと考えられる。
あと見なければいけないのは、表面部分にモルタルがあるかどうかで中性化の進み具合が変わってくることもある。表面にモルタルが施工されたのが、オリジナルで施工されたのか、被爆後に戦後に施工されたのかで話がいろいろ変わってくるところがあるので、そこは詳細にこの後検討しなければならないところがあるが、戦後にモルタルで表面が覆われたということは、逆に言えばオリジナルの部分は戦後には炭酸化によるCO2による中性化はあまり影響を受けずに被爆当時の熱線の影響を顕著に残している可能性もあるため、その辺りについては今後より詳細に検討していく必要があると思われる。
中性化について、このような中性化深さで検討したのちに、科学的分析ということで、粉末X線回折による鉱物の定性分析、熱分析によって、この中性化を左右する水酸化カルシウムや炭酸カルシウムを測定し、それらの結果からどれくらいの熱を受けたのか、受熱温度を推定した。中性化試験の中性化深さや中性化速度係数をフェノールフタレインにかけて評価するのであるが、表面部分に2センチ程度のモルタルが施工されている東面の1階のコンクリートでは、爆心地方向のその表面部分が結構変色したということもあるし、内部に変色している部分もあるので、何らかの変質が出ていると考えられる。
着色していない部分は中性化をしている部分になる。建物内部の表面部分と、アルカリ性を保っていると思われる部分と、東側のモルタルを除いたコンクリートの表面について分析した結果、表面部分はいずれもアルカリ性を保持する水酸化カルシウムは全くなく、逆に気中のCO2との反応によって炭酸カルシウムが大量にできているということで、この辺は炭酸化による中性化が進んでいるのではないかと思われる。
着目すべきは、アルカリ性を保っていると思われる部分が呈色反応では中性化が進んでいないと判断されているものの、水酸化カルシウムがなくなっているということがわかる。加えて、CO2との反応でできるはずの炭酸カルシウムもほとんどないという状況になっていて、他の物質などもさほどないような状況なので、ここは恐らく、この炭酸カルシウムというのは500度程度以上の熱を受けて分解されてしまうので、この辺は500度以上の熱を受けているのではないかと思う。ただし、表面部分を考えるとそれよりも低い500度程度以下の熱しか受けていないではないかという結果にもなり、普通に考えると表面のほうが高い温度を受けていると考えられるので、その辺については若干矛盾をはらんでいる結果でもあり、一サンプルの結果であって一部試験をしていないコアも残しているので、それらの追跡調査をしてよりはっきりさせるべきところと考えている。
以上、3つの点に分けて説明してきましたが、全体的な私の見解としては、創建時のコンクリート、戦後すぐの補修工事のコンクリート、昭和60年以降の補強や補修工事で施工されたコンクリートの区分けを今回の調査でおおよそはっきりさせることができたということが言えるかと思います。
2つ目としては、平和祈念館として現在存在しているコンクリートのうち、約3分の2の部分は創建当時のコンクリートで、残りの部分は補修・補強工事で新たに付け加えられたもので、その補修・補強工事によってオリジナル部分が見えなくなっていて、被爆の痕跡がわからなくなっているとか、逆に被爆の痕跡を残すために機能している部分もあるかと思いますが、そういう状況になっております。
3つ目が、ひび割れとか浮き、剥離の損傷は、経年変化によるものと思われるものが多く、戦後に施工されたと考えられる仕上材、先ほどの表面部分のモルタルとかに覆われている部分も特に壁とかで多くありますので、その中に隠れている被爆の痕跡があるのかどうかは現在のところわかりませんが、総じて被爆の痕跡、第2回の委員会のときに報告した基礎梁の大きなひび割れのような衝撃波・爆風とかによるひび割れが、今回被爆校舎のほうに見られるかというと殆ど確認できていない、まだ明確でないという状況になります。
この辺については、なかなか今の表面部分の仕上材をとって中を調査するというのは非現実的だと思いますので、補修工事の際とか何らかのときに追加で、後々追っていければいいかと思います。
最後に材料的な変質ですが、熱線やそれに伴う火災によって変質したと推定されるコンクリートが残存していますが、まだメカニズムを考えると矛盾しているのではないかと思われるようなところもあるので、その辺についてはさらに詳細な調査を今後していく必要があると思われます。
【会長】
ありがとうございました。事務局から土地利用の変遷、委員から城山国民学校校舎のコンクリート調査の結果を報告していただきましたが、これについて委員の皆様から何かございませんか。
いずれにしましてもこの報告を聞きましたときに、一つは景観が変わってくるということですから、城山小学校ではこれだけ写真を集めて資料が出てきているのですが、その現状を記録しておく必要がありますので、ぜひ報告書の中には現在はどうであるかという城山小学校の写真等の資料はぜひ加えていただきたい。
それからもう一つは、委員から非常に専門的な内容を噛み砕いて教えていただきましたが、黙っていても老朽化する、それでいながら私たちは今後これを後世にどう残していくかということをやっていくので、非常に難しい問題だと思います。そういう面ではやはり今後どういうことをすべきか、どうあったら望ましいとかということを是非、総括ないし触れていっていかなければ報告書の意味がないのではないかという気がいたしますので、そのあたりはぜひ補わせていただきたいということでお願いしたいと思います。
<暫時休憩>
【会長】
委員会を再開します。
それでは、「その他」の項目の中でまず「(ア)ヒアリング調査」、次に「(イ)山王神社石造物に係る拓本」について事務局から説明をお願いします。
【事務局】
「長崎原爆遺跡関係調査一覧」をご覧ください。
現在までのヒアリング調査、山王神社の石造物に係る拓本についてはお手元に図面等々を置いております。それは、あとでご覧いただければと思いますが、山王神社の拓本につきましては、先週現地でもご指導いただいており、狛犬の台座の部分や灯籠の台座の部分にまだ文字があるのをこちらで調査しておりませんでしたので、これについては今後拓本をとり、そのエリアがどういう時期にどういう手が入ったのかということを具体的に整理していきたいと考えております。
平成27年度に関しましては、あとは城山小学校の火葬の跡と、長崎医科大学の門柱の現況の調査、この2つが大きな調査として残っております。これにつきましては、城山小では学校が夏休みの間に可能な限り進める。門柱に関しても、学生の出入りが比較的少ない9月に実施できればと考えております。
この資料自体の発送が遅くなりましたので、次回以降に資料についても併せてご議論していただきたいと思っております。
【会長】
ただ今の事務局からの説明で、ほかに補足したりすることはございませんか。それでは、引き続き充実した調査を継続していただきたいということを委員会としてはお願いしたいと思います。
それでは、文化庁から調査官がお見えでございますので、一言コメントをいただけたらと思っております。よろしくお願いいたします。
【文化庁(浅野文化財調査官)】
先生方、ご議論いただきましてありがとうございました。
事務局からいろいろな調査の概要、それから委員から調査の概要を説明いただいて、それに対していろいろな意見があったと思います。かつての調査とか、現在までのまとめをきちんとするようにという委員の先生方のお話でしたので、次回に向けて、またその資料を収集して調査・検討をしていただきたいと思っております。
また爆心地についても今日ご説明いただきましたので、長崎大学の先生の調査が現段階として正しいといいますか、対応できるものなのかどうかについてもまた検討をいただきたいと思っております。
【会長】
ほかに何かございませんか。ないようですので、これをもちまして第4回長崎原爆遺跡調査検討委員会を閉会いたします。
より良いホームページにするために、ご意見をお聞かせください。コメントを書く