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長崎水道の歴史

更新日:2015年3月9日 ページID:007120

長崎水道の歴史

開港から倉田水樋ができるまで

長崎市が都市として発展を始めたのは開港後(元亀2年(1571)~)のことです。鎖国政策で海外貿易の独占港となった長崎は人口が5万人を超え、江戸、京都、大阪に次ぐ国内で4番目の大都市に発展し、海岸や低地の埋め立てが行われ、市街地が形成されていきました。

しかし、埋め立てにより拡大された市街地では、湧水はほとんど望めず、海岸沿いの町にあっては井戸を掘っても塩水が出るような有様で、人々は生活用水に恵まれず、多大な不自由を強いられてきました。当時は「水売り」が町々を回り、1荷あたり4~6文で飲み水を売っており、ほとんどの住民が丘陵地に出る良質の水を毎日「もらい水」していました。人々は、井戸の持ち主から高い水代を要求されたり、特に水の乏しい地域では「大黒町の水乞食」「浜ノ町の水乞食」と陰口をたたかれたりすることもありましたが、水道を造るためには莫大な費用がかかるため、苦境に耐えながらも「もらい水」を続けていました。

寛文11年(1663)3月8日、長崎は「寛文の大火」に見舞われます。大火は市中を焼き尽くし、66か町のうち被害を免れた3か町を除き、半焼6か町、全焼57か町という極めて大きな被害をもたらし、結果的に町民に対して組織的消防力の強化とともに用水供給施設の開発の必要性を意識づけることとなりました。

そして大火により一念発起し、自費により水道を引こうとした人物が、本五島町の乙名(現在の自治会長)で廻船問屋の倉田次郎右衛門(くらたじろうえもん)です。次郎右衛門は、水源を銭屋川(中島川の別名)に設け、木樋や石樋等を通して溜桝により給水する工事を行いましたが、当時としては大規模な工事で、膨大な出費を要しました。次郎右衛門は、費用を工面するために宅地や回送船など自分の財産を投げ打ち、また長崎奉行所の援助を受けて、延宝元年(1673)、ついに長崎で最初の水道が完成しました。

これが「倉田水樋」と呼ばれるもので、明治24年(1891)に長崎の近代水道が創設されるまでの218年もの間、人々の暮らしを支えてきました。このような大計画を、一町民の発意により私財を投じて完成させた水道は他に例がありません。

近代水道の創設

長崎は、早期から海外との貿易窓口として外国文化が流入したこともあり、当時の日本では文化の水準が極めて高く、江戸時代の末期には長崎に行かなければ文化人になれないとまでいわれ、全国から若者たちが集まってきました。

しかし、海外からの輸入品とともに伝染病の流入も多く、コレラなどの疫病が長崎から全国に広がっていきました。なかでも明治18年(1885)8月、浪ノ平町から発生したコレラは猛威をふるい、死者617人を数えました。コレラなどの悪疫の流行は、住民の衛生観念の欠如もさることながら、倉田水樋の老朽化による飲料水の汚染が原因のひとつとされ、居留地の外国人を中心に水道施設の必要性が叫ばれました。

明治19年(1886)長崎県令に着任した日下義雄知事は、港湾都市長崎の発展には下水道溝の改良工事及び上水道建設が急務であるとして、同年長崎区長に就任した金井俊行区長と意見の一致をみて水道設置を決意し、東京大学助教授の吉村長策を長崎県技師に任用して設計にあたらせました。 吉村氏の設計は、給水人口を6万人、1人1日最大使用量を91リットル、1日最大給水量を5,460立方メートルと想定し、工事費を30万円と算定したもので、この金額は、当時の区の年間予算4万円の7.5倍という莫大なもので、区費で支払うことは不可能であり、住民から調達するのも困難でした。

そこで、所要の金額を政府から無利子、若しくは低利子で一時借用する方針のもと「私設水道会社設置」の準備に着手しましたが、区内88か町のうち、55か町に反対の手が上がり、各町連名で反対意見書を日下知事に提出する一方で、33か町の賛成派が連合し、水道布設に関する賛成派と反対派の対立は激化していきました。賛成派に対する反対派の嫌がらせや脅迫は身に危険を感じるほどのものでしたが、日下知事と金井区長は根気強く説得にあたり、水道創設を推進しました。

反対の主な理由が区民の賦課に対する負担の過重にあるところから、工事負担額の軽減について熟議し、民情をつぶさに査察した結果、一転して「区立水道布設」に計画を変更しました。 この計画は、資本金30万円のうち5万円を政府からの補助(日本で最初の国庫補助金を獲得)、6万円は県の交付金、残額19万円は年6分利子で一般から公借することとし、明治22年(1889)1月22日の臨時区議会において『区立水道布設議案』として可決されました。その後、工事期間2年余りにして、横浜(明治20年10月)、函館(明治22年9月)につぐ我が国3番目の近代水道(水道専用ダムの建設は我が国初)として明治24年(1891)3月に本河内高部貯水池及び本河内浄水場が完成し、同年5月16日から待望の給水が開始されました。

当時、本河内郷の谷間に新しく完成した大きな土手と、これに満々と水をたたえた人工湖、濾水池、配水池はどれも今まで見たことのない景観であり、市内はもとより他県からも見物に来る人が多く、混雑整理のため入場券が発行されたほどでした。なお、本河内高部貯水池は昭和60年に、近代水道百選に指定されています。

水とのたたかい

給水開始からわずか3年後の明治27年(1894)、最初の給水制限が行われました。この年は年明けから降雨量が少なく、貯水池が満水とならないまま夏場を迎えました。人口の増加と、水道に馴染んできた住民たちの使用用途が噴水や道路散水にまで拡がったことから、貯水量の激減を招いたのです。節水の呼びかけを行ったものの効果はなく、7月から昼間12時間給水の給水制限が行われるようになりました。給水制限は9時間給水、一人一日5ガロン(※1ガロン≒3.8リットル)の計量給水、1ガロンの計量給水と、どんどん厳しくなり、とうとう10月には完全断水となり、制限は12月まで続きました。

その後も毎年のように制限給水が繰り返され、以降、80年以上にも及ぶ「水とのたたかい」が始まりました。 雨量不足に加え、日清戦争の勃発により水需要は増加し、明治31年(1898)には、拡張工事を起こすことを決め、明治36年(1903)に第1回拡張事業として、本河内低部貯水池、西山低部浄水場、翌37年に西山貯水池、西山高部浄水場が完成しました。

大正時代に入ると第一次世界大戦による好景気に誘われて大小の諸工業の発展が水の使用を増大させ、第2回拡張事業に着手、計画給水人口は27万人となり、大正15年(1926)に小ヶ倉ダム、出雲浄水場が完成しました。濾過池、配水池は長崎で初めての鉄筋コンクリート構造物であり、また、小ヶ倉ダムは、文化庁登録有形文化財、土木学会推奨土木遺産に認定されています。

昭和になると軍需工業の用水確保が急務となり、第3回拡張事業として市北部に浦上貯水池と浦上浄水場を建設、昭和20年(1945)2月にはダムが未完成のまま給水を開始しましたが、同年8月9日に投下された原子爆弾により浦上水系の水道施設はことごとく破壊され、配水機能は全く停止したまま終戦を迎えました。

戦後も長崎の慢性的な水不足は解消されず、昭和37年(1962)には、大村市と分水協定を締結し、市域外からの給水を行うこととなりました。しかし、大村―長崎間の導水計画は諫早市を経由して陸路を通る場合は約60キロメートルとなり、維持補修も考えると大変な費用になることから、大村湾を横断する海底導水が採用され、大村市側の取水口から海岸まで12キロメートル、海底導水管6キロメートル、長崎市側陸上部分15キロメートルの総延長33キロメートルの布設工事が行われました。当時、海底6キロメートルの導水管布設は全国でもめずらしく画期的な方法だったとのことです。こうして昭和40年(1965)10月、大村市からの導水工事が完成し、一日最大1万2千立方メートルの原水が受水可能となり、昭和43年(1968)2月の道ノ尾浄水場の完成により、第5回拡張事業が完了しました。

このように長崎水道の歴史は給水制限や断水の苦労に追われ、次から次へと新しい水源を探し求め、ひと安心する間もなく、人口増や天候不順により、新たな拡張事業を強いられるという繰り返しの歴史でもありました。 もとより長崎は、地下水が乏しく大きな河川がないという地形上の理由から、山間の谷に堰堤を築いて雨をためるという以外に方策はなく、また四季それぞれに順調に雨が降らないと貯水池は空になり、給水制限や断水に陥るという状態でした。

昭和39年(1964)から昭和42年(1967)頃にかけての異常天候、異常渇水は特にひどく、陸上自衛隊給水派遣隊があり、最も厳しかった浦上水系では2日で3時間しか水が出ないという状況でした。新聞やニュース等でさかんに「長崎サバク」という言葉が使われたのもこの頃でした。 昭和42年(1967)に認可された第6回拡張事業も市域外の西彼杵郡外海町(現長崎市)に神浦ダムを建設し、12本の導水トンネルを経て長崎市内の浄水場まで原水を運びました。16.3キロメートルの導水施設のうち13.9キロメートルは導水トンネルであり、湧水に悩まされる難工事でありました。

この後も拡張事業は、第7回と進められましたが、第6回拡張事業が完了した昭和56年(1981)には当面安定した水の給水体制が確立されました。

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