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更新日:2013年3月1日 ページID:006894
1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。
幕府はこの密貿易への対策として、1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌1689年(元禄2年)に完成しました。
広さは約9,400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めました。二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。
内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。
1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この大火以後唐人自前の建築を許されるようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。
鎖国期における唯一の海外貿易港であった長崎において、出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷は、1859年(安政6年)の開国後廃屋化し、1870年(明治3年)焼失しました。
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