ここから本文です。
更新日:2013年3月1日 ページID:004125
ページ | ナンバー | 掲載地区 |
---|---|---|
1 | No.1~18 | 伊良林・上長崎・磨屋・新興善・桜町・西坂 |
2 | No.19~38 | 矢上・高城台・日見・橘・戸石・古賀 |
3 | No.39~66 | 稲佐・朝日・水の浦・飽の浦・立神・小榊・福田・式見・三重 |
4 | No.67~91 | 外海・琴海 |
5 | No.92~125 | 茂木・田上・日吉・愛宕・小島・仁田・佐古・大浦 |
6 | No.126~151 | 戸町・小ヶ倉・ダイヤランド・土井首・南・深堀・高島・伊王島・香焼 |
7 | No.152~172 | 三和・野母崎 |
8 | No.173~196 | 銭座・坂本・山里・高尾・三原・西山台・西浦上 |
9 | No.197~221 | 滑石・横尾・虹ヶ丘・西北・西町・城山・西城山・小江原 |
伊良林2丁目
坂本龍馬が創設した日本最初の商社といわれる亀山社中跡。現在も建物の一部が残っていて、平成21年8月1日から長崎市が亀山社中記念館として一般公開しています。近くには、亀山社中の志士が、上り下りし、龍馬が通ったであろう「龍馬通り」があります。また、日本で最初にブーツを履いたといわれる龍馬に思いを馳せ、観光客のみなさんが靴のまま足を入れることができる「龍馬のブーツ」や「亀山社中資料館」があり、龍馬の活躍を偲ばせます。
(伊良林)
伊良林2丁目10-2
若宮稲荷神社は、毎年10月14日、15日の秋の大祭で奉納されている『竹ん芸』で有名です。坂本龍馬をはじめ長崎を訪れた武士たちも多く参拝したことから『勤皇稲荷』とも呼ばれています。若宮稲荷神社西側入り口に架かる太鼓橋は、元治2年(1865)に若宮川に架けられた橋であり、坂本龍馬や亀山社中の面々もこの橋を渡って、若宮稲荷神社に参拝したといわれ、地元の人々から龍馬橋と呼ばれています。『方形の鳥居』は、柱が方形に作られた珍しい鳥居です。
(伊良林)
桜馬場2丁目~中川2丁目
古橋は、長崎街道を通って、長崎に出入りするためには、必ず渡らなければならなかった重要な橋で、承応3年(1654年)唐通事林仁兵衛によって架けられた石造りアーチ橋です。しかしよく見ると現在の古橋は欄干の親柱等をそのまま埋め込んで、約1メ-トルかさ上げされています。これは明治時代になって人力車や荷車等が通行できるようにするため改修されたものと思われます。それ以前は、道路はこの橋のところで階段を下り、更に上がるようになっていたことが、その側壁の石組みから見てとれます。
(伊良林)
夫婦川町2-18あたり
「トッポ」とはもともと仏教法具「獨鈷(どっこ)」に由来するともいわれ、弘法大師がこの地を訪れた際に、この獨鈷で地面を掘ったところ、水が湧き出したという伝説があります。このトッポ水を雌川、春徳寺下の斎道寺泉を雄川と呼んでいたことから、2つの泉は夫婦川といわれ、「夫婦川町」の町名の由来にもなりました。
(上長崎)
西山1丁目
西山1丁目には立山役所専用水樋として徴用された井戸があります。立山役所は延宝元年(1673年)に倉田水樋が完成した際、標高の関係もあって水が引けませんでした。そこで翌延宝2年(1674年)奉行牛込忠左衛門は倉田次郎右衛門に命じ、立山役所専用水樋を架設させました。次郎右衛門は西山郷背畠(狭田)山に水源を求め、水道樋(延長約1420メ-トルという)をもって立山役所に水を引きました。(一説に寛政8年(1796年)とする。)この井戸は、地名から狭田井、また泉の傍にある樹木が目印となって桜井と呼ばれていました。
(上長崎)
最近では木材やベニヤ板を使用し、提灯の灯りもバッテリーを使った現代風な精霊船が大半ですが、わが地区では竹とわらと荒縄を使い、またミヨシや提灯にはローソクを使用し、先人から伝授された技術で独特の船造りをしています。近隣の山で切り出した竹で、船体を組む工法は近頃では非常に珍しく、伝統を継承した長崎一の精霊船と自負しています。当日は町内のもやい船として御霊を西方浄土へお送りしています。
(上長崎)
諏訪町8-20
文化10年(1813年)、大村藩士山本保助が長崎で唐の毛皮商・陳建の屋敷を買い取り、開業しました。坂本龍馬、高杉晋作、井上聞多や明治維新で活躍した志士も通ったといわれる「一力」は、長崎の数ある料亭の中でも最古の歴史を誇ります。風情のある寺町通りに面して、落ち着いた雰囲気を醸し出す和風建築は平成21年度に長崎市都市景観賞表彰を受けました。
(磨屋)
古川町袋橋たもと
江戸時代、長崎の町は火事が多く、明和3年(1766年)、天明2年(1782年)と西古川町から出火し大火となりました。このとき町民はお金を出し合い地蔵様を建立しました。その後、今日まで町を火除け地蔵として守っていただいています。明治初期、玉園火事がありましたが、西古川町のお地蔵様のおかげで同町に延焼しなかったという言伝えもあります。平成18年6月15日新たに祠を建立し、今は袋橋の横にて西古川町を守っています。
(磨屋)
浜町内
田栗奎作著、昭和46年(1971年)浜町三百年祭の記念事業の一つとして、10年の歳月をかけ、町内の先人達をはじめ多くの方々のご協力のもと完成しました。慶長13年(1608年)の浜町草創期から昭和55年(1980年)までの長きに渡り、単に浜町商店街並びに商店の推移を紹介するだけでなく、長崎という都市の発展過程の中で浜町を捉えています。一つの町の歩みをこのようにあらゆる角度から考察した書は、日本の商店街史の中でも大変珍しいものです。
(磨屋)
魚の町、栄町、賑町、万才町、興善町、金屋町、築町、江戸町出島町、元船町、樺島町、五島町
長崎くんちは、376年の長い歴史を誇っており、くんちの奉納踊は国の重要無形民俗文化財に指定されています。新興善地区連合自治会では、各自治会共に踊町として、伝統を受け継いています。地域が一丸となって長崎の伝統行事を盛り上げること、また、それぞれのまちで特異な芸能が子から孫へと伝承されていることはわがまちの自慢です。
(新興善)
江戸町2-13
長崎県庁は、明治7年(1874年)に長崎奉行所西役所跡に建てられた長崎県の中心となる官庁です。新興善地区は、県庁がわがまちにあることを誇りに思い、県庁とともに歩んできました。県庁舎は数度の建て替えや原爆のため庁舎が焼失し、一時仮事務所に移転したことを除けば、開庁以来136年もの間、わがまちのシンボルであり続けています。
(新興善)
興善町1-1
思い出深い新興善小学校が統廃合されたことは、地域住民にとって、つらいことでしたが、平成20年1月、その跡地に建てられた市立図書館はオープン以来多くの市民に活用され地域の新しい活力となっています。また、新しい図書館には新興善メモリアルも併設されており、新たな地域のシンボルとなりました。この地は活版伝習所跡、唐通事会所跡でもあり、優れた文化の伝承の地ともいえ、地域の自慢です。
(新興善)
馬町21-1
市内では数少ない大正期の洋館で、レンガの外観とマンサード屋根が特徴的であり、現在は市民活動の拠点として市民に活用されています。平成21年4月に国の登録有形文化財となりました。
(桜町)
玉園町4-60
秋、ホテルセントヒル長崎へ向かう道からふと目をやると、大きなイチョウの木が2本真っ黄色に色づいた木にびっくりします!!青空に映える姿は見事です。
(桜町)
玉園町3-77
独特の黄檗様式である天王門(中門)の本尊。布袋さんは実在の人物と言われ、中国唐末の明州(浙江省)の僧で、弥勒菩薩の化身とされます。紀州いろは丸の賠償交渉のため、この寺を訪れた坂本龍馬も木像の巨腹の布袋さんに心癒されたかもしれません。
(桜町)
西坂町9-2
西坂地蔵堂(地蔵尊)は寛政8年(1668年)に安置されました。椛島町民が大波止の海中から地蔵尊を拾い上げ、それを井樋の口にある聖徳時に納めるため、人夫が運搬してこの地まで来た時、地蔵尊が急に重くなり動かせなくなったので、置いて帰ったところ、人夫の夢枕に地蔵尊が立ち、西坂に安置せよとのお告げがあったので、ここに安置されたといわれています。巡拝日は4月6日、9月30日。毎年50人~100人の巡礼者が訪れます。
(西坂)
筑後町2-70
梶クマ(お久)さんは、坂本龍馬も尊敬する勝海舟が愛した人であり、その墓が聖無動寺にあります。クマ(お久)さんは、安政2年(1855年)長崎海軍伝習所で学ぶために来崎した海舟と知り合い、のちに梅太郎という子どもをもうけています。聡明で美しい女性だったと伝わっていますが、慶応2年(1866年)に25歳の若さでなくなりました。海舟の日記には、その知らせを聞いたときの嘆きと悲しみが記されています。残された梅太郎は、明治になって東京の海舟のもとに引き取られ成人しました。
(西坂)
御船蔵町10
わがまちに、長崎港を一望する風光明媚な五社公園があり、その一角にある「原爆殉難の碑」は、町内会の手によって今でも大切に守られています。昭和20年8月9日原子爆弾の投下により、この地で多くの方が亡くなりました。それを目撃しその地に埋葬した住民が、どうしても供養しなければいけないと浄財を出し合って35年前に建立しました。毎年8月9日には町内の有志と西坂小学校の先生と児童が平和学習を兼ねて慰霊に訪れ、花束、折鶴などを捧げ、世界の恒久平和を祈願しています。
(西坂)
より良いホームページにするために、ご意見をお聞かせください。コメントを書く