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更新日:2013年3月1日 ページID:004133
ページ | ナンバー | 掲載地区 |
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1 | No.1~18 | 伊良林・上長崎・磨屋・新興善・桜町・西坂 |
2 | No.19~38 | 矢上・高城台・日見・橘・戸石・古賀 |
3 | No.39~66 | 稲佐・朝日・水の浦・飽の浦・立神・小榊・福田・式見・三重 |
4 | No.67~91 | 外海・琴海 |
5 | No.92~125 | 茂木・田上・日吉・愛宕・小島・仁田・佐古・大浦 |
6 | No.126~151 | 戸町・小ヶ倉・ダイヤランド・土井首・南・深堀・高島・伊王島・香焼 |
7 | No.152~172 | 三和・野母崎 |
8 | No.173~196 | 銭座・坂本・山里・高尾・三原・西山台・西浦上 |
9 | No.197~221 | 滑石・横尾・虹ヶ丘・西北・西町・城山・西城山・小江原 |
岩屋町
長崎市岩屋町在住、林熊市さんは、明治43年11月15日生まれ。99歳の現役自治会長です。通算すると38年もの長い間自治会長の要職を努めておられます。地域住民の規範であります。また「長崎くんち」でも有名な『傘ぼこ』の総大将で『傘ぼこ』行列では陣頭指揮をとりました。平成20年10月、テレビで紹介されています。
(滑石)
滑石2丁目
龍を造り続けて57年、龍造り名人の田中常治さんです。田中さんが初めて滑石町の龍を手掛けられたのが昭和27年。今まで200体以上の龍を製作されました。長崎市内はもちろん、北は北海道から南は沖縄までいろいろな所から依頼が殺到しています。まさに日本一の龍造り職人、龍造り名人といえるでしょう。平成12年には京都清水寺から龍の製作の依頼があり、その時は黒澤明の映画「乱」などで衣装を手掛けられた世界的衣装デザイナーのワダエミさんもご自宅を訪問され、その卓越された職人技に敬服されています。添付の写真は、平成9年五島町が初めておくんちに龍踊りを奉納した時のものです。田中さんは随所に初めての町なりの工夫をされました。
(滑石)
滑石6丁目1-11 滑石大神宮内
滑石竜踊は明治10年に雨乞いと五穀豊穣を祈願するため滑石大神宮の氏子が奉納したのがはじまりです。昭和52年には長崎市指定無形民俗文化財の指定を受けました。毎年10月に行われる滑石大神宮での奉納踊りはもとより、地域で行われるイベントにも積極的に参加しており、毎年開催される長崎郷土芸能大会にも過去10回出演しています。また県外では「札幌雪まつり」(平成3年)をはじめ、東京・大阪など全国各地からの出演要請にも応えています。海外においても韓国大田国際博覧会(平成5年)や韓国釜山市での「朝鮮通信使400周年記念行事」(平成19年)などにも出演しています。
(滑石北陽・大園)
滑石6丁目1-11
滑石大神宮社叢は、大村藩滑石の氏神として万治3年(1661年)建立された滑石大神宮の周囲に鎮守の社を形成し、いわゆる照葉樹林で、高木のクスノキ、シイ、マキなどを含む数多くの樹木が美しい風致、景観を呈しています。また、この社叢は長崎市の天然記念物に指定されており、学術的にも高い価値があります。
(大園)
横尾4丁目
横尾西部自治会・生ごみリサイクル部では「私もできる環境問題」に取り組もうと、家庭から出る生ごみを堆肥化し、無農薬、無化学肥料による野菜作りに取り組んでいます。平成16年、市環境部が進める生ごみ資源化モデル事業の実施団体に指定されたのをきっかけに、現在45世帯が約700平方メートルの菜園を整備し、生ごみリサイクル元気野菜作りに取り組んでいます。メンバーの活動はそれだけにとどまらず、雨水貯め機の製作、生ごみの堆肥化に必要な「ぼかし」作り、講座の開催、菜園ニュースの発行等、多岐にわたっています。特に横尾小学校では、学校給食の残飯を肥料に変え、野菜を作る作業を児童に指導し、地域の子供たちの食育に協力しています。
(横尾)
横尾2丁目16-1
「だんじり(浮立)」は明治初期頃からあり、地域で豊作祈願や雨乞い、秋の収穫期などの村の行事の際には必ず出演していました。昭和30年代を最後に中断、以降は途絶えていましたが、平成9年に「横尾だんじり保存会」として復活、横尾祭への出演のほか、小学校の学習として、4年生を中心に笛、大太鼓の指導を行い、地域住民との交流に役立っています。平成12年長崎郷土芸能(日蘭交流400周年記念行事)大会に出演。平成17年に山車を復興させ、さらに傘鉾の復興も計画しています。平成19年度は復活10周年を記念して、笛、銭太鼓、衣装等も新たに揃え、平成20年には第33回長崎郷土芸能大会に出演しました。平成21年8月には地域のデイケアー祭りに参画(2回目)し、今後も地域友好、活性化に向けてますます参画していきます。
(横尾)
エミネント葉山町
エミネント葉山には様々な一番があります。まず、市内で一番目のカタカナの町名です。次に市内で一番目の例となる「エミネント葉山地区計画」を住民の手で策定しました。そして市内で一番最初に青色回転灯装着車でのパトロールを実施しています。また団地内のメインストリートに安心の色(癒しの色)である青色の街灯を設置しています。自治会のキャッチフレーズは「安心・安全・ブルーライトの街」です。
(虹が丘)
西北町(開宅)、若竹町(森田宅)
西北地区にある民家では、原爆の熱線、爆風を生き抜いた樹木が今なお、被爆の痕跡を今に伝えながら力強く繁っています。1.西北町の被爆柿の木とカシの木…柿の木は爆心側が焼けましたが、いまでは毎年実をつけます。カシの木は、爆風で途中から折れ、熱戦で焼け残った幹が向きだしになっていますが、葉が茂っています。2.若竹町の被爆柿の木…柿の木は高さ約5メ-トル、幹周り約2.2メ-トル、根元に黒く焼けた跡があります。樹齢約260年といわれています。いまでもよく繁り、毎年実をつけています。
(西北)
岩屋町
岩屋町内JR路線脇に岩屋神社の鳥居が建っており、昔の参道であったことを遺しています。鳥居に刻まれた岩の字には昔の字「嵓」が使われていて、珍しいです。
(西北)
赤迫2丁目
赤迫のバス停の前に6体のお地蔵さんと、3体の小さなお地蔵さんがあります。「六地蔵」の名称で親しまれており、バス停も「六地蔵前」となっています。蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像は各地で見られるそうで、これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであると言われています。
(西北)
白鳥町8(白鳥運動場)
祭りの日は、子どもみこしが出演します。これは自治会単位で子ども達、保護者、役員さんたち三世代にわたって、ユニークなタイトルをつけたみこしを作り、30分程、町内を練り歩くというものです。平成20年は、8体のみこしが出場しました。子どもみこしは25年間続けています。また、地元の民謡もあり、西町まつりで踊って受継いでいます。
(西町)
西町19
春には白鳥公園の桜、夏には錦川や西町小学校校舎裏に現れるホタルなど自然の多い中で、特に西町の湧水は、背後にそびえる岩屋山の恵みを受け、年中こんこんと湧き出す銘水です。8月9日の平和祈念式典での献水としても使われ、地元だけなく遠方のからも利用者が訪れます。
(西町)
西町12
西町校区は長崎大学で学ぶ留学生が多く住んでいます。特に長崎大学国際交流会館はその拠点であり、西町小学校の子ども達をはじめ、地域住民との交流のシンボルとして、国際交流に溢れた街づくりに貢献しています。
(西町)
油木町7-1、7-2、6-40
屋根の形状から”かぶとがに”の愛称の県立総合体育館は、メインアリーナ・サブアリーナ・武道館等の施設があり、その規模から、体育大会のみならず各種大型イベントも開催されます。プラネタリウム・天文台・スペースシアター等の設備がある科学館は、子供達の興味をそそる科学実験も行われています。交通公園は、ゴーカート・自転車により実際の信号機や横断歩道で、子供達に楽しく交通ルールを教えています。この3施設があるこの場所は若者と子供達が集まる文化の中心地です。
(西町)
城山町23-1城山小学校
市立城山小学校は大正12年(1923年)、城山尋常小学校として浦上川に臨む小高い丘の上に創設されました。その後昭和12年には当時九州随一といわれた鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が建設され、被爆前は児童1500人が通うマンモス校として知られていました。しかし爆心地からわずか500mという至近距離に位置していたため、原爆により強力な爆風と熱線の直撃を受け鉄筋コンクリートの校舎は大きな亀裂が入り内部は全壊、一部は焼失しました。校内にいた三菱兵器製作所勤務の職員や動員学徒ら100余人、在籍した児童約1400人が死亡しました。戦後の昭和21年4月からは城山地区の状況や被爆による児童数の減少などにより一時休校が決定、稲佐国民学校に移籍され、その3月に戦後初の卒業式が稲佐小の一室をかりて行われましたが、卒業生は男子5人、女子9人のわずか14人でした。その後、昭和23年4月には、城山小学校として復校しました。被爆した校舎は修復され、戦後も長く使用され、その後昭和59年新校舎の建設に際し、同窓会などの保存運動が実り一部が遺構として保存されました。その後児童の発案を活かし、平成11年に城山小平和祈念館として生まれ変わり、多くの修学旅行生などが原爆や戦争の実相について学ぶ平和学習の場として活用されています。
(城山)
城山町23-1城山小学校
城山小学校の小学6年生による平和案内人の取組みです。年に3回、4回、県外の修学旅行生の受け入れや、被爆校舎や校内の案内などの活動を行っています。
(城山)
松山町2400-1
市民が気軽に運動できる最適な場所です。小・中・高校生の部活から年配の健康ウォーキングなど、幅広く利用されています。
(城山)
西城山校区連合自治会(青山町、金堀町西部、城山台1丁目、西城山校区西部、青城、若草町、若草町北部)
チャレンジデーは、毎年5月の最終水曜日に世界中で実施されている住民総参加型のスポーツイベントです。西城山校区では、地域住民が15分間以上スポーツに取り組みます。参加率を競い合うイベントで、7年間から連合自治会で取り組んでいます。長崎県でも7年間も取り組んでいるのはこの地域だけです。平成21年は全国102か所で実施され、126万人が参加したビックイベントです。
(西城山)
立岩町
立岩町の市道(春木町・小江原線)の西口バス停を少し登った山の中に、屏風を立てたような巨大な岩が突き出している。立岩神社の背後、約100メートルの所に、ひときわ目立つ巨岩(高さ9メ-トル~12メートル)があり、立岩(別名、権現山)と呼んでいます。この岩には、その昔、神功皇后が朝鮮征伐の途中この地に立ち寄り、家来の武内宿禰(たけのうちすくね)に「この岩の上に登って国見せよ」と命じた霊地との伝説があります。立岩神社の創立年代は不明ですが、いつの頃からか、武内宿禰を祭神とする社殿が建ち、立岩権現と呼ばれ、寺野郷の鎮守の神として存続してきました。しかし明治維新後に立岩権現を、立岩神社と改称。明治44年に拝殿を再建したが、原爆や火災に遭ったあと、小じんまりとしたコンクリートの社殿が建立され、現在に至っています。立岩神社の例祭は、毎年10月13日大祭日前夜の日曜日に、「ふるさとまつり」を開催しており、子供たるみこし、子供すもう、民踊などが奉納されている。神社の境内には、明治45年に地元民から奉納された石灯ろう、それに「皇紀二千六百年記念碑」があり、歴史の移り変わりをしっとりと偲ばせてくれます。
(西城山)
城山台1丁目
私たち仲間(60才代~70才代)は14人~15人で”桜の会”として平成17年秋から山桜を育てております。大小合わせ(70本~80本)、冬期と春から7月まで、毎年2回~3回の草刈りを行っています。はじめの頃は、背丈以上の草木に覆われていた桜も、今では大空いっぱい枝葉を伸ばし、ぐんぐんと成長しています。山桜は、ソメイヨシノと違い、寿命が長いと言われます。会員一同100年いや200年~300年先を夢みて頑張っています。今では、花見も出来るほどになりました。是非一度お出かけください。
(西城山)
小江原1丁目32-1
愛宕神社は300年の歴史があり、当時は火の神社(くど)及び食物の神様と話を聞いたことがあります。境内までの参道は長い階段で235段余り、森の中にあり付近の人たちは近道として利用しています。毎年10月の中旬には、秋祭りが開催されています。
(小江原)
小江原ニュータウン内
はじめは小さい木々たちも立派に花をつける木に成長しました。春3月とてもいい気持ちで通行できます。寒い季節が終わり子ども達の入学をまちわびるかの様に、満開に咲き誇る桜は、この地区の皆さんに愛されている通りです。また、秋になると紅葉を鑑賞できる素晴らしい通りです。
(小江原ニュータウン)
小江原ニュータウン(まるたか駐車場)
夏祭りは平成21年で10回目を迎えますが、平成20年からテーマを決め住民参加型の夏祭りを開催しています。平成20年は「夢」というテーマのもと、子ども達の夢を書いたふうせんを飛ばしました。中学校のブラスバンドから始まり、子ども会のゲーム、太鼓広場では、小さい子から高齢者の方に太鼓をたたいてもらい、盆躍りの後には抽選会をし、出店もにぎわい、年々参加者が増えています。また、多くの方が楽しめるようブルーシートを引いて座卓を設け、ケアセンター等の皆様がくつろげるように車いすの席用のテントなどの工夫もしてます。平成21年のテーマは「絆」です。
(小江原ニュータウン)
小江原ニュータウン内通学路
ニュータウンに引越しして、はじめて経験したこと、それは深い霧です。ニュータウンでは、6月は半分くらいは霧の中で、深い時は隣の家が見えないくらいです。(ほんとうですヨ!!)深い霧の日は学校から連絡があり、お母さんたちが通学路で立哨します。小江原ニュータウンならではの光景です。
(小江原ニュータウン)
小江原ニュータウン内
秋になると色づく木々。一本道なので見事です!!絵ハガキにもできそうなほど見事な一本道です。朝の通勤時に通ると、目の前には岩屋山の紅葉も鑑賞できる素晴らしい通りです。
(小江原ニュータウン)
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