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更新日:2013年3月1日 ページID:004128
ページ | ナンバー | 掲載地区 |
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1 | No.1~18 | 伊良林・上長崎・磨屋・新興善・桜町・西坂 |
2 | No.19~38 | 矢上・高城台・日見・橘・戸石・古賀 |
3 | No.39~66 | 稲佐・朝日・水の浦・飽の浦・立神・小榊・福田・式見・三重 |
4 | No.67~91 | 外海・琴海 |
5 | No.92~125 | 茂木・田上・日吉・愛宕・小島・仁田・佐古・大浦 |
6 | No.126~151 | 戸町・小ヶ倉・ダイヤランド・土井首・南・深堀・高島・伊王島・香焼 |
7 | No.152~172 | 三和・野母崎 |
8 | No.173~196 | 銭座・坂本・山里・高尾・三原・西山台・西浦上 |
9 | No.197~221 | 滑石・横尾・虹ヶ丘・西北・西町・城山・西城山・小江原 |
上黒崎町26
黒崎教会はフランス人マルコ・ド・ロ神父が設計指導したレンガ造りの教会として有名です。大正9年(1920年)12月19日に献堂式が行われました。約15万個の煉瓦と、14,519枚の瓦が使用されており、戦争中は爆撃をさけるため、煉瓦にコールタールを塗り、カモフラージュしました。
(外海)
神浦江川町神浦神社
「ヒーヒラロ」は神浦神社の祭礼の中で行われる神事のひとつです。神浦神社は神浦の氏神様で、旧暦の8月15日が祭礼日に定められており、15日にお下り、16日にお上りが行われます。この時、笛の音に合わせて太鼓をたたいて踊るのが「ヒーヒラロ」です。「ヒーヒラロ」の言い伝えは定かではなく、いつの頃からか笛の音色をもって愛称として親しまれてきたものと思われます。
(外海)
東出津町77遠藤周作文学館より
外海といえば夕日が有名です。数ある美しい夕日スポットの中でも、角力難を望む遠藤周作文学館からの夕日は神秘的な光の広がり、とても美しいです。
(外海)
下黒崎町
海につき出た瀬は、「おおこ瀬」とも言われ、その昔、味噌五郎が大きな岩をかついで、五島まで行く途中、腹が減ったので出津の人に味噌を求めましたが、貧しさゆえにもらえず、この場に大きな岩(大城・小城とおおこ)を置いて帰ってしまったことから、大城・小城とおおこ瀬が残ったという伝説があります。
(外海)
下黒崎町
その昔、大城とおおこ瀬と共に、味噌五郎が置いていったといわれるのがこの小城で、この岩山の先端を小城鼻(端)と呼びます。立岩は、小城付近が崩落した折、転げ落ちた岩石が立っていることから「立岩」と呼びます。
(外海)
新牧野町285
結晶片岩を使用し、ド・ロ神父の工法を取り入れた石積の倉庫で、保温性に優れています。他にも外海地域には、同様の小さな建物が現存しています。
(外海)
池島町154
池島は、角力灘に浮かぶ周囲4キロメ-トルの小さな島です。かつては、炭鉱の島として栄えましたが、炭鉱閉山により、人口340人余りと激減しました。この状況の下、私たちは毎年4月に島の自然を生かし、島の活性化・住民交流を目的とした「ステップUP池島釣大会」を開催しています。池島今昔巡り、魚つかみとり等のイベントもあります。
(外海)
西出津町字橋口
出津浜は浜石が多く、海辺は波が荒いため、浜石を利用して石垣を積み、宅地と田畑を確保したものと思われるが、昔の石垣は、川辺まで下っており、相当な高さがあったが、河川改修後、道路が出来たため、現在の形となりました。
(外海)
下大野町2619
明治26年(1893年)、ド・ロ神父が設計施工して大野地区26戸の信者のために建造した出津教会の巡回教会。壁は当地産の玄武岩割り石を漆喰モルタルで固めた特異な壁体(地元では神父にちなんで「ド・ロ壁」と呼ぶ)を築き、その上に洋式のキングポスト(真束)をもつ木造小屋組を架け、側面の窓は、上部を半円アーチ形にした煉瓦造りです。そのほかド・ロ神父の建築技法が随所に見られ、また地域の風土に密着した造形を示しています。同年10月にクーザン司教によって祝別され、ロザリオの聖母に奉献されています。平成20年6月に国指定重要文化財に指定されました。
(外海)
神浦下大中尾町
平成11年7月に農水省が認定した「日本の棚田百選」に選ばれた大中尾棚田は、面積8.8ヘクタ-ルで、田んぼの枚数は約450枚です。起源は戦国から江戸時代とされ、先人が200年余りの長い歳月をかけ、神浦ダム上流から約4.2キロメ-トルにおよぶ大井手水路の竣工とともに1枚1枚の田んぼを耕してきたといわれています。この棚田は、自然に囲まれた素晴らしい景観をもち、四季折々に様々な表情を見せてくれると共に、貯水や地滑り防止のほか、生態系の維持に大きな役割を果たしています。
(外海)
神浦江川町
神浦には3寺院が並んだように建立されています。外海地区には3つの教会と3つの寺院があり、このような小さな町にしては大変珍しく、特異の文化をもった地区であるといえます。それぞれの歴史は古く、宗派は光照寺が浄土真宗、久本寺・光照寺が日蓮宗となっています。
(外海)
神浦向町
神浦川は全長9キロメ-トルの2級河川で、平成2年度の環境庁公共水域水質調査で北海道の2つの河川とともに、「日本一の清流」と認められました。その後平成6年度の県水質調査においても、環境基準満足度のベスト3に入るなど、外海地区が誇る美しい川として多くの人々に親しまれています。
(外海)
琴海尾戸町
尾戸半島を縦断する市道(琴海大平町琴海尾戸町1号線)からの眺めは自慢です。特に松尾地区周辺から大村方面の眺望は素晴らしく、時の経つのも忘れてしまいます。また、そこから見える大村の夜景も必見です。
(琴海)
琴海形上町
「舞岳城を守る会」によって歩道も整備され、歩道には四季を彩る、桜、つつじ、山茶花、紅葉、銀杏等が植樹されています。また、舞岳城からの展望は眼下に形上湾、大村湾、南北に多良山系、雲仙岳を眺望でき、特に朝日が昇る時は素晴らしい絶景で楽しめます。
(琴海)
琴海形上町 大江橋付近
春はポピー、夏はサルビアなど季節によって植え替えられます。草とり、しおれた花びら摘み等は地域住民や中学生の奉仕活動で行っています。管理が行き届いた「リバーサイド花園」は、住民が一体となって作り上げた自慢の花園です。
(琴海)
琴海形上町大子地区
春は桜が咲き乱れ、秋は銀杏の木の黄葉が見事です。夜も楽しめるようにと自治会会員でライトアップされ地区の憩いの場となっています。夜桜の下つい深酒をしても「神様明日もよろしく」と祈って気持ち良く家路へ帰宅させてくれる神社です。
(琴海)
琴海大平町
西望の雅号は、あの北村西望さんと面談し譲り受け、名を汚さぬ様、日々精進しておられます。老人ホームなどで絵手紙指導や絵付教室をされ、ボランティアの輪を広げたいと、一生懸命頑張っておられます。創造美術会日本画副代表の職を持ち、将来を嘱望される画家です。
(琴海)
長浦町
退職後、竹墨を焼き、のれん、風鈴など作ったり、残りの竹を利用して、虫、鳥、花、花びんなどを創作して、町内の公共施設や商店、複数の家庭に配り、皆さんの心をいやしておられます。長浦小学校の地域ティーチヤーとして、すいか作り、竹細工なども教えておられます。
(琴海)
長浦町字池田
江戸時代初期の貴重な五輪塔です。歴史の長い流れの下に、無縁墓地として知られることもなく埋もれていたのが、近年、長浦村地頭「針尾家の墓所」であることが判明しました。
(琴海)
琴海戸根町
琴海戸根町を東西に流れる、清流戸根川。春には川沿いに2キロメ-トルに及ぶ桜並木、その上流には初夏を告げる「ほたるの郷」がほたるの乱舞で訪れる人を歓迎します。2つのグループが中心になり、地域の人たちといっしょに景観づくりに努めています。
(琴海)
琴海戸根町
明治26年頃、地域に赤痢が発生した際、病魔退散を願って奉納されたのが始まり。戦時中自然消滅的に途絶えましたが、昭和51年に「浮流を復活し、先輩たちの偉業を想い、心のふるさとを築き上げよう。」と地域のみなさんの熱い思いで復活しました。その後ほぼ3年に1度戸根くんちに奉納され、琴海地区の伝統文化行事として伝承に努めています。
(琴海)
琴海戸根原町字赤水
戦後、地元の山道文作、脇川良司両名が他の山にある変わった山桜を発見し、現在の地に移植しました。この山桜を鑑定したところ、長崎大学の植物専門教授により、異質の山桜であることが、判明しました。赤水公園開設時にこの山桜を接木して、約300本を植樹しています。
(琴海)
琴海戸根原町2212-1他
正面に多良岳や大村湾が見渡せ、遠くは雲仙普賢岳や、南の方に目を向けると、香焼ドック、伊王島、野母半島の先端権現山までを眺めることができます。この風景は、どこにも負けない琴海地区の自慢です。
(琴海)
西海町谷門
昭和40年後半の全盛期には、32の事業所があり、200人」近くの人が就業していました。【西海石】として墓石、間知石、栗石など生産が追いつかないほどの需要があり、地場産業として隆盛を極めました。
(琴海)
西海町
青少年育成のために昭和63年に「にしうみ太鼓」が誕生しました。平成2年には、長崎旅博にも出演し、現在子どもたちの育成に主眼を置いて活動を続けています。指導者の地道な努力が郷土芸能として定着し、多くの催しにも出演しています。
(琴海)
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