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更新日:2013年3月1日 ページID:004127
ページ | ナンバー | 掲載地区 |
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1 | No.1~18 | 伊良林・上長崎・磨屋・新興善・桜町・西坂 |
2 | No.19~38 | 矢上・高城台・日見・橘・戸石・古賀 |
3 | No.39~66 | 稲佐・朝日・水の浦・飽の浦・立神・小榊・福田・式見・三重 |
4 | No.67~91 | 外海・琴海 |
5 | No.92~125 | 茂木・田上・日吉・愛宕・小島・仁田・佐古・大浦 |
6 | No.126~151 | 戸町・小ヶ倉・ダイヤランド・土井首・南・深堀・高島・伊王島・香焼 |
7 | No.152~172 | 三和・野母崎 |
8 | No.173~196 | 銭座・坂本・山里・高尾・三原・西山台・西浦上 |
9 | No.197~221 | 滑石・横尾・虹ヶ丘・西北・西町・城山・西城山・小江原 |
稲佐山公園内及び稲佐児童公園
稲佐山景勝保存会は、毎年つつじまつりの開催期間中4月29日~5月5日に「つつじまつり」を開催しています。期間中は稲佐山野外ステージにて、親子でハタ作りやハタ揚げ、カラオケ大会、婦人部の民謡大会などの様々な催し物を行っています。市内全域から人が集まり、参加者は年々増加傾向にあります。また、毎年8月には稲佐児童公園にて盆躍り大会も開催しています。盆踊り終了後は、ビンゴゲーム大会で締めくくり、大変な盛り上がりをみせます。
(稲佐)
淵町8-1
淵神社は、長崎市に対岸地区が編成される以前は、淵村十三郷の氏神様であり、後に県社に昇格しました。関わりのあった歴史上の人物として、稲佐氏やキリシタン大名大友宗麟の孫娘(桑姫さま:マキゼンシア)が挙げられます。長崎ロープウェイは、境内の淵神社駅から稲佐岳駅までをわずか5分で結び、稲佐山から眼下に広がる市内全景のパノラマが楽しめます。外国人観光客や宝珠幼稚園卒園の福山雅治さんのファンも訪れる場所です。四季折々の美しさがあり、篠笛の曲が響きわたり市民の心癒されるスポットにもなっています。
(稲佐)
稲佐町11-1稲佐小学校
稲佐小学校は、長崎のシンボルである稲佐山の麓に明治15年に創立された伝統ある学校です。正面入り口に、高さ約2メ-トルの漢文の記念碑「稲佐小学記」が建立されており、碑文には、明治29年に当地に新校舎が建てられたことにより、多くの優秀な人材を育成したいという人々の願いが込められています。大正11年に制定された校歌は、市内の市立小・中学校で唯一外国人の作曲であり、作曲者のエエムアシュポーに関する資料は残っていませんが、鎖国時代から明治・大正期にかけて多くの外国人が行き交った、稲佐の土地柄をあらわしています。平成5年完成の現在の校舎は、三菱重工長崎造船所で建造された豪華客船「クリスタルハーモニー号」をイメージして建てられました。
(稲佐)
曙町7,8
稲佐悟真寺国際墓地は、市内3箇所の国際墓地(他に大浦、坂本)の中で最も古く、その歴史は江戸時代初期に遡ります。長崎の歴史のなかでキリシタン迫害は多く語られますが、キリシタン全盛時、またそれ以前、神社仏閣はキリシタン教徒によって完全に破壊されました。そのような中、慶長3年(1598)長崎での再興1号として復興したのが悟真寺であり、稲佐国際墓地は同寺の境内地にあります。その発祥は、渡来した明国人が同寺を菩提寺にしたことに起因し、その後オランダ、ロシア、アメリカ、イギリス等長崎で没した人々が埋葬され今日に到っています。ここには数多くの外国人が葬られており、国際都市長崎を物語っています。また、キリスト教徒により迫害されながらも、復興後キリスト教徒をも埋葬、供養回向し、今日もなお同寺、地域住民により守られているのは他に類をみません。平成3年には、旧ソ連のゴルバチョフ大統領も顕花に訪れ、大きな話題になりました。墓地の整備は数回に渡り行われていますが、墓地周辺道路と蓮池の整備がなされ、今日の姿になったのは平成8年稲佐・朝日まちづくり協議会の発足後、故福田壽穂氏、故副島篤氏の御尽力によります。お2人の御功績に感謝し、今後とも地域住民は故国に帰えれることなく多くの異国の方がたが眠る稲佐国際墓地を大切に保存していくつもりです。
(稲佐・朝日)
旭町17付近
この通りは、道路にハートマークの模様があったり、月花美人の花があったりと、人々の目を楽しませてくれます。美しい朝日が昇り、近所にはすずめの巣があり、まるですずめの学校さながらです。また、夏の夜は家の2階から長崎港に上る花火を見ることができます。
(朝日)
大鳥町
平成元年にバザー大会として始めたお祭りが平成5年にダンダンフェスティバルと改称し15年、今では地区の行事としてすっかり定着しています。毎回、朝日小学校のヨサコイ踊りや龍踊、丸尾中学校のブラスバンド部による演奏などが行われ、大変盛り上がります。準備のため、地域住民は前日から100段以上ある会場までのダンダン(階段)を何度も行ったり来たり。大変ですが、若い人にその姿を見せたいとがんばっています。催し物も、幼児から大人まで飽きがこないように気を配りながら楽しんでいます。
(朝日)
大谷町高部バス停付近
地区の一番上から地区内の緑地、港、対岸の市街地を一望する景色は、言葉には言い表すことができない美しさです。毎年7月に長崎港で開催される花火大会の特等席でもあります。
(水の浦)
水の浦地区
一人暮らしの高齢者等とのふれあいの場として30年以上もの間、月に一度の食事会を続けています。地域の主婦パワーを結集し、自分たちで作った野菜等を使って、あったかい手づくりの味をお出しします。この過程がまた地域の元気につながっています。
(水の浦)
水の浦地区水の浦地区
平成8年にまちづくり勉強会を発足し、平成12年度にまちづくり協議会を設立。生活道路づくり、老朽住宅の建替えなど、まちの整備計画を行政と共同で検討する一方で、階段の上り下りの際の休憩スペースを確保するためのイスを設置するなど「地域の身近な問題はできる限り自分たちの手で解決していくこと」を大切にしています。
(水の浦)
飽の浦町1-1
安政4年(1857年)長崎熔鉄所として開設。万延元年(1861年)長崎製鉄所に改称。後に、三菱会社に払い下げられ、現在の長崎造船所となりました。現在の長崎の基礎となる事蹟の一つだと思います。
(飽の浦)
飽の浦町8-10飽の浦カトリック教会
教会というと白い建物が多いようですが飽の浦カトリック教会は茶色&”ピンク”なのです。可愛らしくとても目を引きます。クリスマス前後にはイルミネーションも施されます。この可愛らしさは、一見の価値有りです。
(飽の浦)
飽の浦バス停付近
米屋のみきや隣にものすごく急な坂があります。馬力のない車だったら登れないでしょう。以前テレビでも紹介されてましたが長崎No.1の坂だそうです。
(飽の浦)
西泊町9
天満神社は延宝7年(1679年)に筑前黒田藩の西泊番所出征藩士が勧請して大宰府参拝所として建設されました。現在の建物は平成元年に旧建物を建替えたものです。正殿に掲げてある各種の額面は奉納者は凡て黒田藩の藩士です。鳥居は一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居があります。戦後まで神社脇に居があった神官が管理されていましたが、現在は自治会が管理、淵神社が所掌しています。
(立神)
西泊町8-22
佐藤邸は幕末から明治中期にかけて建てられた5棟の建物(主屋、木造家屋、石倉2)からなります。主屋は当時としては貴重なレンガを用いた建物で、倉は長崎ではめずらしい石積りでできており、質倉として利用されていました。幕末から明治にかけて西泊町発展の証しであり、象徴的な建物といえます。
(立神)
西泊町22-1(NTTワールドエンジニアリングマリン株式会社敷地内)
西泊町には、明治以来今日まで海底通信ケーブル建設・保守の拠点となっている事業所があり、その敷地内には歴史ある赤レンガ造りの洋風建築が存在しています。この建物は、明治29年に陸軍省臨時台湾電信建設部の電源舎として建築され、110年余りの風雨に耐え抜いてきたもので、現在は「海底史資料館」として一般にも公開されています。なお、2009年2月23日に経済産業大臣から「近代化産業遺産」の認定を受けました。世界中に張り巡らされた海底ケーブルによって高度な情報通信社会が実現するまでの様々な歴史が刻まれており、わが町の自慢の代表格といえます。
(立神)
神ノ島町2丁目146
明治期に建設てられた長崎市を代表する教会建築。神ノ島の先端に位置し、回りを海に囲まれた長崎らしい眺望の美しい教会です。
(神ノ島)
小瀬戸町
明治中期より昭和47年までの間、夏の水泳鍛錬の場として、毎年長崎市内の多くの小中学生が参加しており、小榊地区のみならず、多くの市民の懐かしい思い出の島です。年1回実施されていた古式泳法による大名行列は有名。現在は埋立てにより、小瀬戸町と陸続きとなっています。
(神ノ島)
神ノ島町3丁目
1850年当時の佐賀藩が長崎港防衛のため総力を挙げて建設した台場で、神ノ島と四郎ヶ島の間を埋め立て、四郎ヶ島全体を要塞化したもの。長崎市の台場の中で最大のものであり、当時の遺産がそのまま残存している歴史的価値の高い島です。
(神ノ島)
木鉢町2丁目655
木鉢地区の木鉢神社のおくんちは、戦時中、一時中断されていたが、戦後の復興により、まつりを再開することとなりました。その際、まつりのシンボルであるみこしを木鉢地区の住民有志が自ら手造りで製作し、これが現在も大切に保存され、使用されています。
(神ノ島)
大浜町、小浦町、福田本町
福田浦は忘れてはならない歴史とロマンを併せ持つ、リゾートな街です。1565年領主大村純忠の代、福田浦は長崎港に先駆けて開港。5年の間ポルトガル船との貿易とキリスト教布教の中心的役割を果たし、日本への西欧文化・文明伝播の一翼を担いました。幕末には異国船の警備強化のため小浦町舟津に警備船を係留する「船囲場」が整備され、今も石積みの波止場に当時の遺構が残されています。時は流れ平成の世に入り、台場先の海岸は、福田浦の恵まれた海洋資源を活かし日本屈指のマリーナ設備を有する「長崎サンセットマリーナ」が開設され、九州「海の駅」にも選ばれました。スポーツ・憩いの場・デートスポットとして利用されており、2014年(平成26年)には長崎国体のヨット競技場に選定されています。ここからの夕日の眺めは格別の美しさで、大航海時代のロマンを無限に秘めています。
(福田)
福田地区一帯
1562年領主大村純忠の代、明船が福田浦の田子島沖に停泊して、大村公との貿易を願い出た時のことです。その間船員らが退屈しのぎに小船を下ろし、船先に龍首を飾り、板を持って競争しました。これが福田におけるペーロンの始まりです。長崎ペーロン350年を遡ることおよそ100年も前から、ここ福田では田植えの後「川祭り」を行って水神様に感謝し、五穀豊饒を祈願してペーロン競漕(足洗いペーロン)が行われていました。特に手熊町は約30年前から兵庫県相生市のペーロン祭りに選手団を派遣し、交流を続けています。この交流がきっかけとなって長崎市と相生市は平成14年にペーロン交流都市の提携を行いました。川祭りは今も各集落で様々な形式で受け継がれています。また、「ヤナギ」と呼ばれる飾り旗は「水神さん」に奉納されます。これは竹と色紙で作られる高さ約6メ-トル、幅3メ-トルを超える大型のもので、口述伝承により老若男女それぞれ役割分担し、製作に2日以上要します。独特の形状と飾りつけは民俗学上からも見ごたえがあります。
(福田)
福田地区一帯
自然環境・景観ともに恵まれた福田は、海岸線が長く続き、岩屋山の麓へと続く広い地域です。長崎市最大の「かきどまり総合運動公園」、市中心部から最も近い「弁天白浜海水浴場」なども兼ね備えており、海岸、陸地共に市民に大変親しまれています。四季を通じて自然の恵み豊かで、陸からは、舞岳富士の麓、柑橘類をはじめ多彩な農作物が収穫され、海からは四季折々、ワカメをはじめ多彩な海藻類、魚介類が揚がります。昔から「福田のエソ竹輪」、「ウニ」は有名で、近年商品化された「ワカメ麺」が福田の特産物として仲間入りしました。また、手熊、柿泊から大浜までの自然海岸は、変化に富んだ奇岩・洞穴が数多く、砂浜はウミガメの希少な産卵場所となっています。遥か数万年前の旧石器時代から、福田の地での人々の暮らしを支え続けた「自然の恵み福田」に感謝です。
(福田)
式見沖(三重との境)
故郷を思い浮かべる時、まず思い出すのが神楽島。特に式見から見た神楽島は一番格好いい。端整で、どっしりしていて男前。美しい夕陽と神楽島、最高です。その昔、南蛮船や唐船が長崎港に入港する時、また戦艦武蔵の出港を目撃した歴史の生き証人でもあります。
(式見)
式見町678式見小学校内
このエノキは、樹高17メ-トル、幹回り5.8メ-トル。幹は高さ1.7mのところか3つに分かれ、その内の1つの幹は周囲2.8メ-トルの大きさがあります。樹齢300年以上と推定とされており、平成10年に市の天然記念物に指定されました。児童たちの「心の樹」であり、地域のシンボルでもあります。
(式見)
園田町管無田地区
太古の昔から鎮座してしる観音岩。背が高く、容姿端麗でやさしい百済観音を思わせる、観音岩です。これからも、末永く式見を見守ってほしいです。最近、観音岩の頭頂部に営巣している「ハヤブサ」を確認しました。
(式見)
三京町
稀少な鉱石であるヒスイ(長崎県指定天然記念物)がとれたところから命名されたといわれるこの公園からは、長崎漁港を中心に発展を続ける街並みが一望できるほか、眼前に広がる海原に浮かぶ神功公郷伝承の島「神楽島」も望むこともできる。また平成10年5月には、長崎漁港の誘致をはじめ長崎県の水産振興のみならず、地元三重地区の発展にも多大なるご貢献をした柏木哲氏の寿像が建立されました。
(三重)
三重町三重みなと公園グランド
地区住民の体育を振興し、生活の明朗化と健康の増進を図り、地区住民相互の融和を進めることを目的に始めた三重地区体育祭は、昭和33年(当時三重村)のスタート以来、毎年盛大に行われ、平成20年10月に50回という節目の大会を開催しました。長崎漁港の進出に伴い、大型団地の開発等で人口が急増する中、体育祭を通じて、新しい住民と旧来の住民との融和と交流が深まり、三重地区の連帯感が強まった上、自治会組織の強化にも繋がっています。まさに体育祭は三重の活性化の要です。この体育祭は、60回、70回…とさらに回数を重ねていきたいと思います。
(三重)
三重町、樫山町、京泊3丁目、畝刈町、多以良町(三重地区全域)
旧大瀬戸町の松島を発祥の地とする口説き調の盆踊りで、歌舞伎や芝居の台本、浄瑠璃物語などの歌が七七調の成文となって語り伝えられたもの。三重地区には幕末、八兵衛という人が教え伝えたといわれ、毎年8月14日から3日間、幼児からお年寄りまで、夜明けまで踊っていましたが、今は自治会ごとに深夜12時頃まで行っています。平地地区のほか、西部地区(樫山)、東部地区(京泊、畝刈、多以良)にも同様のくどき踊があり、お盆に自治会単位で踊られています。
(三重)
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