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更新日:2013年3月1日 ページID:004132
ページ | ナンバー | 掲載地区 |
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1 | No.1~18 | 伊良林・上長崎・磨屋・新興善・桜町・西坂 |
2 | No.19~38 | 矢上・高城台・日見・橘・戸石・古賀 |
3 | No.39~66 | 稲佐・朝日・水の浦・飽の浦・立神・小榊・福田・式見・三重 |
4 | No.67~91 | 外海・琴海 |
5 | No.92~125 | 茂木・田上・日吉・愛宕・小島・仁田・佐古・大浦 |
6 | No.126~151 | 戸町・小ヶ倉・ダイヤランド・土井首・南・深堀・高島・伊王島・香焼 |
7 | No.152~172 | 三和・野母崎 |
8 | No.173~196 | 銭座・坂本・山里・高尾・三原・西山台・西浦上 |
9 | No.197~221 | 滑石・横尾・虹ヶ丘・西北・西町・城山・西城山・小江原 |
銭座町1-16銭座小学校
銭座小学校の校舎が平成元年に解体、新築されたましたが、地元天神町出身で同校卒業生でもある著名なマンガ家・故清水崑さんのカッパ絵をご家族のご厚意で壁画に採用することになりました。地元ではユニークな校舎として有名です。”なかよし”と題された壁画は、「友達に対する思いやりを大切にすることが、自分の命を大切にすることだ」という地域の方々の思いをこめて作られました。在校生にとても好評で、毎朝夕の子ども達の登下校をやさしく見守っています。
(銭座)
銭座町聖徳寺墓地内
長崎開拓の祖、長崎代官村山等安は、キリシタンの擁護と大阪方に内通した嫌疑で処刑されました。聖徳寺には、その兄宗寿の150年忌の碑、等安の長男徳安の墓がありましたが、明治12年子孫により三宝寺に移されました。しかし一部の墓碑や地蔵はそのまま残され、村山家は長崎会所の同じ役人であった牛皮目利役の高比羅(良)家にその後の慰霊を頼んだといいます。(旧村山家墓地跡がそのまま高比羅家墓地となっており、高比羅家子孫は銭座町に在住)地蔵群は古い顔立ちながら、今も参拝に訪れる人々を静かに迎えておられます。
(銭座)
銭座町1-16銭座小学校
江戸期、貿易は長崎に限られ、繁栄を誇りましたが、その輸出品のひとつとして求められたのが銅銭です。当初、大阪の鋳造所から送られていましたが、不便だったのでここ長崎の地で銅銭が作られることになり、中島銭座、築地銭座、銅座銭座ができました。馬込銭座は、寛保3年(1743年)から延享2年(1745年)までの2年間、寛永通宝を作った跡で、現在の銭座小学校校庭付辺とみられます。明治後期、小学校建築の際に砥石等の工具や寛永通宝が出土としたと伝えられています。
(銭座)
岩川町7-1
平成20年4月にオープンした「江平地区ふれあいセンター」には15か所のふれあいセンターの中で唯一「足湯」が設置されています。この「足湯」は、環境に配慮して屋上に設置した太陽熱温水器と1階のガス湯沸かし器でお湯を張っています。オープンから平成21年3月末までの「足湯」利用者は約12,000人となっており、地域住民のコミュニケーションの場所として、また憩いの場所として活用されています。今後は、地区内にある穴弘法山、山王神社の大クスや一本柱鳥居などの散策の後にこの「足湯」を活用してもらうことにより、地区の活性化に繋げていきたいと考えています。
(坂本)
坂本1丁目12-4(現長崎大学医学部裏門)
長崎大学医学部の前身である長崎医科大学は昭和20年(1945年)8月9日、爆心地から600メ-トル~800メ-トルの至近距離に位置していたため、一瞬のうちに倒壊・炎上し多くの教官・学生・看護士・職員が犠牲となりました。長崎医科大学の正門門柱は、原爆被災を祈念するモニュメントとして現場保存されています(現長崎大学医学部裏門)。なお、明治24年(1891年)に設置された長崎大学医学部に包括され、長崎大学長崎医科大学となり、その後、昭和35年(1960年)に廃止されました。
(坂本)
江平1丁目32-1(穴弘法奥之院霊泉寺)、坂本3丁目6-1(穴弘法寺)
昭和20年8月9日、原爆により穴弘法奥之院霊泉寺の建物は全壊し、石像はほとんどが破損しました。また、ここは浦上地区から金毘羅山を越えて市街地を結ぶ通路にあたっていたため避難者が列をなして押し寄せ重傷者の避難所になりましたが、多くの人がここで力尽きて息絶えました(銘板抜粋)。霊泉寺は昔から湧水が有名で、水を求めて登ってきた被爆者もいました。8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での献水の水は、霊泉寺からも運ばれています。穴弘法寺は、旧長崎医科大学の救護所に指定されており、被災者が登ってきましたが、多くの人がここで亡くなられています。ここには戦後すぐ原爆殉難者供養地蔵尊が建立されました。
(坂本)
坂本2-6-56
山王神社の境内参道入口に2本のクスノキが向いあって立っています。向かって右側のクスノキの幹周りは8メ-トル、左側は6メ-トルあり、「山王神社の大クス」として長崎市指定天然記念物に指定されています。この「山王神社の大クス」は、昭和20年8月9日の原爆により枯木同然でしたが、次第に樹勢を盛り返し、豊かな緑をたたえています。また、山王神社の一本柱鳥居は、爆心地から約800メ-トルの距離にあり、原爆の爆風で周辺が焼け野原になりましたが、片方の柱と半分の笠石を残して立っている被爆建造物です。
(坂本)
平和祈念像の右手奥
ここは、しっかりとした標示とベンチがあるにも関わらず、意外と知られていないスポットだと思います。浦上天主堂が真正面に見え、神学校などのカトリックの建物と金比羅山とのコントラストが見事な場所です。原爆によって壊滅した街がここまで復興したのかと思うと感慨深いです。長崎市の代表的公園である平和公園付近を歩いていて、思わず足を止め、しばらく見入ってしまう素晴らしい景観だと思います。
(山里)
橋口町20-56
地域のシンボルとして、また丘の上から見下ろすと一際目立つ存在として山里小学校の校舎を発見することができます。山里小学校は赤レンガ造りのとても美しい小学校で、平和祈念像や浦上天主堂等の周辺施設と調和した校舎であることを評価され、平成元年度文部大臣奨励賞を受賞しました。
(山里)
大橋町
大橋公園は、交通量の多い国道に面した公園であるため、市民の皆様や観光客の皆様の憩いのスポットとなっています。夜はライトアップさえれたサクソフォンが、昼は地域の方々が育てた花々がおもてなしをしています。
(山里)
本尾町1-79
原爆の悲惨さを伝えるものであり、長く保存していくべき貴重な財産です。
(高尾)
三原1丁目
フランスのルルドという地方で、「ベルナデッタ」という少女に、キリストの御母聖マリアが出現され、数々の奇跡が起こりました。特に聖母に言われた場所を掘ってみると泉が湧き出て、その泉の水を飲んだり、浸したりした病人が奇跡的に治るというようなことが続発しました。今ではルルドは有名な巡礼地となっています。この奇跡が起こったという泉がある巡礼地にちなんで、原爆で精神的・肉体的打撃を受けた人々の心の支えにと、この地にルルドが完成しました。
(高尾)
辻町
浦上切支丹殉教の歴史を語る道標であり、信仰の遺産でもある十字架山は、1881年、当時の浦上教会主任プト師を中心として、配流から生き残って帰ってきた信者たちによって、築造されました。浦上4番崩れの配流から戻った浦上の信徒は、心ならずも絵踏みをしたことを罪として償い、そして信仰を表明できることに感謝して、この丘に十字架を建てました。十字架山は公式巡礼地として指定されています。
(高尾)
三原町1丁目42-45
当地区住民先代、先々代が土地を拠出して広げ整備し、浦上一帯に知られた清水グランドが、35年前までありました。西山団地造成に伴って、自治会はこの地を小学校用地として譲り、その補償金をもって約100坪(大集会場30坪ほか)の自治会公民館を建設することとしました。現在は、自治会のみならず広く地区に開放し地域の諸活動・カルチャーセンターとして活用されています。
(三原)
三川中学校グランド及三原小学校体育館
40年ほど前、昭和40年前後から、加入自治会対抗のソフトボール大会を運営しています。途中中断がありましたが、平成21年に32回を迎えました。みな安全を目標に楽しんでいます。平成9年から種目に女性のソフトバレーが加わりました。また、平成20年「がんばらんば体操」指導を取り入れ、地域スポーツ教室は平成20年から年によって並行実施。参加者は男女、老若、青少年にわたって多く、交流の実を挙げています。
(三原)
浦上一帯 浦上一帯に広く行われる惣菜(料理)
浦上地区に伝わり、材料、味付けに各々特徴をもち、姉妹兄弟、親子の中でも工夫があり、いろいろ異なる「そぼろ」に進化します。材料:豚肉(上等でなくてよい。適当な細切り)牛蒡(ささ切り)、コンニャク(豚肉・牛蒡にあわせ切って湯通ししておく)もやし(サッと湯通しをしておく)、ニンジン、さやまめも可。調理法は以下のとおりです。
(三原)
西山台2丁目10,16、1丁目25
長崎市内最後の有数な団地として昭和53年に分譲が開始され、順次住宅を建設。それからはや30年、街にうるおいと、ゆとりと、美しさをあたえるため、サクラを植樹しました。開花時期になると、町内はもとより、市内各方面から見物に訪れ1日中賑わっています。
(西山台)
三ツ山町犬継バス停の上
明治初期に建てられた教会は、その後昭和36年、現在の美しい教会に建替られました。屋根には、大きく”世界平和を祈ろう”とかかげられています。朝な、夕な、美しい鐘の音が、世界平和の祈りと、みんなに安らぎを与えています。大司教、高見三明様のふるさとでもあります。400年前、伊達藩からヨーロッパに派遣された使節団が豊臣秀吉のキリシタン弾圧で伊達藩に帰れず、長崎の地へたどりつきました。教会の上の墓地には、その子孫の墓が残っています。
(西浦上東部)
三ツ山町、犬継、六枚板両自治会
三ツ山浮立は江戸後期時の大名行列を模したものです。1848年頃、五穀豊穣と雨乞いを祈願して始まったと伝えられています。総勢100人~150人からなりる行列芸です。芸はホーホーガン・渡り拍子の曲で始まり、笛、太鼓、鐘の鳴に合わせ、カラを先頭にササラ、扇子踊り、最後にカケ踊りが登場します。庭打ちは舞台芸として、太鼓打ちが頭に月の輪をつけ、踊りながら太鼓を打ち、その姿は勇壮です。またその時サグマと面を付けたカケ踊りが一緒に演じられ、テンポの速い岡崎の典で芸はクライマックスを迎えます。最後にカンタンみちびきの典で退場するストーリーとなっています。平成5年から継承の願いを込め、川平小学校の児童に指導をしています。
(西浦上東部)
大手1丁目14-3
西浦上小学校の前を流れる浦上川に毎年、約70匹~80匹の鯉のぼりが泳いでいます。 これは地元の自治会(昭和・大手・文教)の会員、及び西浦上小学校育友会、教職員、子ども会等、地域の方々が一体となって取り組んでいるものです。4月の入学式に合わせ新入生を歓迎するとともに、在校生の健やかな成長を願い、5月の子どもの日までの約1か月間実施しています。また、隣には長崎バイパスの昭和町出口があるため、他県より長崎観光にこられる方の市内への第一歩として好印象を得られるよう「長崎旅博覧会」の2年前(昭和63年)より毎年続けられ西浦上東部地区の風物詩となっています。近年は、鯉のぼりが不足しています。皆様の寄贈をお願いいたします。
(西浦上東部)
女の都2丁目
女の都2丁目自治会では、20年以上前から11月3日に自治会で秋祭りを開催しています。当日は、女の都住吉神社に子ども神輿、龍踊、コッコデショを奉納し、地域の老人ホーム女の都山荘と、おたけ公園でも踊りを披露します。龍踊の龍は町民の手づくりです。発泡スチロールの頭に千枚以上ものうろこをつけて製作しています。公民館では文化祭も併催しています。
(西浦上東部)
住吉地区一帯
長崎市の副都心「住吉地区」として「長崎市で一番住みよい街づくり」を目指す、このことが自治会、商店街、地域住民すべての願いです。毎年秋に、この「住吉まつり」を開催することで、歴史、伝統を継承し、新しい文化を創造しています。これからも地域住民と商店街が一体となり、交流の場として発展させ、より魅力的な街づくりを目指していきたいと考えています。
(西浦上中央)
住吉中央公園
平成18年から地域の子ども達と大人の交流を図るために開始し、平成21年で4回目を迎えました。夏休みラジオ体操は、自治会、子ども会などで行っていますが、8月1日の1回だけは、住吉中央公園で合同で実施することとなりました。今年は、長崎国体に向けて「がんばらんば体操」も行い、子ども約250人、大人約200人の参加があり、子どもたちには参加賞を配布しました。来年以降も継続していきたいと考えています。
(西浦上中央)
西浦上中央地区一帯、北公民館
西浦上中央連合自治会地区内に住む70歳以上の一人暮らしの高齢者に、食事サービスを実施しています。社協西浦上中央支部の行事で平成4年から開始しました。現在の毎月実施の形態は平成8年からで、住吉中央公園にあった、ふれあいセンターで行い、平成13年11月からは北公民館で行っています。西浦上中央連合自治会内の各自治会からボランティア約90人の登録をいただいています。一人暮らしの高齢者を「ひとりぼっちにしない」「ひきこもりをなくす」などを目標に交流を図っており、ボランティアにとっても楽しみになっています。
(西浦上中央)
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