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更新日:2024年7月4日 ページID:004129
ページ | ナンバー | 掲載地区 |
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1 | No.1~18 | 伊良林・上長崎・磨屋・新興善・桜町・西坂 |
2 | No.19~38 | 矢上・高城台・日見・橘・戸石・古賀 |
3 | No.39~66 | 稲佐・朝日・水の浦・飽の浦・立神・小榊・福田・式見・三重 |
4 | No.67~91 | 外海・琴海 |
5 | No.92~125 | 茂木・田上・日吉・愛宕・小島・仁田・佐古・大浦 |
6 | No.126~151 | 戸町・小ヶ倉・ダイヤランド・土井首・南・深堀・高島・伊王島・香焼 |
7 | No.152~172 | 三和・野母崎 |
8 | No.173~196 | 銭座・坂本・山里・高尾・三原・西山台・西浦上 |
9 | No.197~221 | 滑石・横尾・虹ヶ丘・西北・西町・城山・西城山・小江原 |
茂木町
高台にある古い神社で江戸時代は八武者大権現と称されており、明治元年(1868)に裳着神社と改称しました。なお、「裳着」については、神功皇后がこの地に上陸したおり、下袴を着替えたことにちなみます。後に読みやすいように地名は「茂木」と改められました。社の本殿の高梁の欄間の牡丹、鯉、虎、金鶏、雲龍等の透かし彫り「かご彫り」は必見です。また、ここから見下ろす茂木の町並みと煉瓦も絶景です。
(茂木)
茂木町
144段の石段を根気よく上っていくと一気に展望が開け、潮見崎観音にたどり着きます。宝栄3年(1706年)開山。子授けの観音として信仰されています。眼下には橘湾、遠くには雲仙岳や天草を望み、景色は最高。見下ろす海沿いの道には「長崎の奥座敷」と称される料亭が建ち並びます。毎年8月10日には千日祭が行われ、この日お参りすれば千日参ったと同じくらいご利益があると言われています。夜は縁日が並び、子ども達の楽しみとなっています。
(茂木)
茂木町
茂木びわは、江戸時代に中国産のびわの種を旧茂木村内にまき、その木が茂木びわの原木となったのが始まりです。甘くて大変美味で、日本一の生産高を誇ります。ハウスびわ2月上旬、路地びわは5月下旬に収穫期を迎えます。長崎県は、全国のびわの栽培面積の約3分の1を占め、「茂木」は、全国のびわの栽培面積の5割を超えている代表的な品種です。また、茂木は魚介類も自慢で、漁師の人達が獲ってくる魚は新鮮でとても美味しい!!最高です。
(茂木)
田上4丁目唐八景入口準提観音堂
唐八景の山腹に準堤観音という観音堂があり、毎年4月28日、29日の両日にわたり田上の伝統行事の一つとして準堤観音祭りが行われています。この祭りでは、タケノコを使った郷土料理や、いもの粉で作るロクベエもお目見えし、さらにお団子がふるまわれ、大変好評です。また、唐八景公園ではこの時期に長崎の伝統行事のひとつであるハタ揚げ大会が開催され、子ども向けにハタ作り教室も開かれています。
(田上)
田上1丁目~2丁目 旧茂木街道沿い
江戸時代、茂木街道は薩摩藩への海上ルートとして重要な役割を担っていました。当時、島原藩主や天草藩主らは天領である長崎へ食糧米を船で茂木へ運び、そこから田上の陣屋の米倉へ運び保管していました。今でもその陣屋跡の石垣や塀が残っています。もともと田上は、茂木が島原藩の領地であったことから、その飛び地の田上名(みょう)でした。田上の名を冠する田上寺(でんじょうじ)は、島原藩主高力(こうりき)氏が土地を寄進して創建された寺で、ここには田上にゆかりのある松平長七郎の位牌と供養塔があります。
(田上)
田上1丁目
長崎くんちが終わるとこの田上稲荷神社の祭日である「田上くんち」の準備が始まります。当日は、神主を迎えて祭礼を行い、子ども奉納相撲や奉納踊りのほか子ども会による出店もあり、地元の人々で賑わいます。また、11月には、田上峠のお地蔵様への感謝を込め、地元の人たちが集まり祀っていましたが、最近では、次世代への継承の意味も込め、地元の子どもたちも参加。「地蔵まつり」として、子どもたちが地蔵様を台車にのせて練り歩くなど、地域全体で取り組んでいます。
(田上)
飯香浦町
飾りそうめんの技術は江戸中期頃より開始されたと考えられています。全国的にみてもこれほど複雑な工程を経て編み上げられるものはないでしょう。幔幕(まんまく)と鎧兜(よろいかぶと)一対を製作しますが、幔幕は一本の棒にリリアン編みの様式で編み上げ、鎧兜は木と紙による枠に上下に分けて、生そうめんと紙と元結いを使用して編み上げていきます。編み上げ時間はおよそ3時間。乾燥を嫌うためスピードを要します。小麦粉の生産地でもないこの地方に、そうめん編みの技術が伝承されていることは稀有であり、民俗資料として珍しく、この民俗技術を保持することは、農民文化を知るために大切だと思われます。市指定無形民俗文化財に指定されています。
(日吉)
太田尾町
毎年7月23・24日、地区を挙げて祭礼を行います。祭祀には、念仏や金正が奉納されます。そうめんによる人型造形(そうめん結び=武人人型または祭祀全体)は市の無形民俗文化財に指定されています。詳細ははっきりしていませんが、無病息災、五穀豊穣を願い、約450年前ぐらいから始まったのではと言われています。丸尾尊(丸尾地蔵)が姉で、飯香浦成尾地蔵尊が妹だという姉妹説もあります。地蔵祭数週間前より、念仏の練習が夜々始まり、静寂をついて太田尾中に聞こえ、なんとも言えぬ、いにしえの深さを感じる一時です。
(日吉)
太田尾町山川河内川
橘湾に流れる太田尾川は延長3.5kmで、花の里山川河内集落で山に囲まれています。昔はとても美しい川で、ホタルも家の中まで入って来るほどたくさん飛んでいましたが、昭和57年7月23日大水害に見舞われ、一瞬にして田畑や川は跡形もなく流されました。その後河川工事により、川は三面張に変わり、生物もホタルも見る事はないと思われました。しかし、それから10年後、川に草木が生え、川にウナギ、ツガネ、ホタルが見られるようになりました。平成13年、下水処理場の供用開始により川の水がきれいになり、今では毎年5月下旬になると、美しいホタルの乱舞を見ることができます。
(日吉)
三景台町
三景台町は市内の中心部から茂木街道に抜ける田上峠の手前の小高い丘にある町です。眼下には長崎港が広がり、稲佐山の反対側から長崎のきれいな眺めを望むことができます。
(愛宕)
八つ尾町白木団地前バス停付近
昭和37年、長崎県の団地造成により、白木団地、県営住宅が造成されました。この桜は昭和43、4年頃、地元の住民が白木町から白木団地への道路沿いに植樹したもので、現在では素晴らしい桜並木に生長し、地域住民の安らぎの場となっています。長期間咲く桜もあり、見事な美しさです。
(愛宕)
白木町9(八穂神社)白木町10(岩水稲荷大明神社)
八穂神社は、白木地域の鎮守として崇められ、昭和39年以前頃までの祭事には、奉納相撲や露店も並ぶなど相当の賑わいがあったようです。その後、相撲の伝統は子ども会の子どもたちにより守られていましたが、現在では奉納相撲や露店による賑わいは見られません。しかし、祭事の初午祭(2月)、例大祭(9月)は今でも行われ「地域の守り神」として崇められています。また、八穂神社と共に祭事を行い親しまれているのが岩水稲荷大明神社です。昭和の初め頃までは、丸山遊女も参拝していたとのことで、珍しい石造りの水といが残っています。
(愛宕)
愛宕1丁目
愛宕神社の社殿は愛宕山の麓(玉木幼稚園上)にあり、上宮は、背後にそびえたつ名山愛宕山頂にあります。愛宕山は七高山巡りの山の一つであり、市民にもなじみが深いものです。明治維新前には上宮に愛宕大権現(火産霊神)を安置していましたが、維新後は、参拝者の便宜が図るため、麓の社にも愛宕神社を奉祀したので、現在は山上、山下共に神霊を奉祀するに至りました。
(小島)
愛宕1丁目
愛宕バス停から正覚寺電停までを流れている「小島川」は、流水が美しく、自然が多く残る風情豊かな川です。流れを見ながら川沿いを散策するルートとしておすすめです。まちの人には、昔から親しまれている川で、川の中に井戸の跡が残っており、この井戸水は出島のオランダ屋敷までひかれていたそうです。(高平町付近)
(小島)
弥生町20-30
切り花が豊富で評判がよく、農産物は朝一番取り、店に並んだ品物からは、まだ土の匂いがプンプンしています。果物のアイスクリームは大変美味です。高所にあるため、この場所からは橘湾が見下ろせ、空気が美味しいです。長崎女子短大の隣にあり、まちの名所となっています。
(小島)
上小島5丁目
南部和美氏がアサリ貝殻から造り出す蛙達のには人間さながらの動きの一瞬を取らえた素晴らしい情景があります。他に竹細工による虫達や、組み立てかたがまったく解らない竹の自在鉤等、南部氏の工房には数百点の作品が充ち溢れています。
(上小島)
東小島町5-5
長崎市内最古の神社で、永禄11年(1568年)神南の地に日本武尊を祀ったのが始まりで寛文元年(1661年)現在地に再興されました。在留唐人からの寄進や近くに住む高島秋帆も奉賛し本殿には、高島四郎太夫の名を記した棟板が収められています。神社の右上天満宮には、巾1.5メ-トル奥行0.8メ-トルもある巨大な石屋根の石造祠があります。現在も例大祭には、子供神輿が町内を巡ります。
(上小島)
上小島1丁目~4丁目
唐商何旻徳(カ・ピントク)が国禁を犯した疑いで処刑された際、馴染みの遊女で阿登倭(オトワ)が後を追い、自ら命を絶ちました。このとき里人たちが哀れみ碑を建て、この地は傾城塚と呼ばれるようになり、以後近くの坂を旻徳にちなんでピントコ坂と呼ぶようになりました。この事を後世に伝えるよう明治期に碑文を刻んだ碑が建立されています。
(上小島)
星取町
明治7年12月9日、金星が太陽の表面を通過するという当時の天文会では大変重要な現象が起きました。このとき訪れたアメリカ隊が当時太平山と呼ばれていた星取山で観測を行いました。観測には日本最初のカメラマンである上野彦馬も参加。太平山は、その後、金星観測を行った場所であることを記念して、星を撮った場所という意味の「星取山」に改称され、現在に至っています。
(仁田南部)
大浦元町
明治36年、長崎測候所(長崎海洋気象台の前身)は、正午になると空砲を撃ち、市民に時間を知らせるようになった。毎日どーんと号砲がなることから、その名がつい場所です。この方法による時報は、昭和16年に廃止されるまでの38年間、雨の日も風の日も続けらました。その後、昭和22年に海洋気象台が南山手町に創立された後は、長崎市によって「どんの山公園」として整備され、現在も午砲台が保存されています。
(仁田南部)
上小島5丁目10
合戦場は、かつては木駄ノ原とか僧都が岡と呼ばれていましたが、日露戦争以降、祝捷山と呼ばれました。戦国時代末期には、長崎氏と深堀氏がしばしばこの場所で合戦をしたところから、この名があります。明治以降、この地で盛んに競馬が催されたので田上競馬場とも称されました。祝捷山というのは、長崎市東浜の町の田中直三郎氏が日露戦争の勝利を記念して、ここを公園として整備、西道仙が祝捷山と命名したことによります。
(仁田南部)
中新町10-10
約101年前から祭られている霊験あらたかな、お地蔵様は、昭和50年の中新町火災に延焼を免れました。小学生のテスト、安産祈願、交通安全、町内安全、良縁、等々この地区の氏神として多くの人がお参りしています。古老の話では、夢枕に立った地蔵尊から「私は唐八景の入口近くの準提さんの草むらの中に居る地蔵だが、私を連れて行ってくれないか。そして、私を地祭りをしていただければ町民の幸せを守るのだが」とお告げがあり、翌朝、夢の場所へ行って驚き、町内に安置し、地祭りを行ったといいます。現在でも自治会で年2回の大祭を施行し、地区の活性化と親睦、美化運動、子供の躾等を行っています。また、町内のご婦人11名が当番で毎日お花の水かえと清掃をしています。
(仁田)
新地町(湊公園)
湊公園では、毎週木曜日の午後8時頃から十善寺龍踊会の龍踊り練習を見ることができます。新地中華街を散策していた観光客も龍囃子の音に誘われて湊公園へ。思いがけず龍踊りに出会えて大喜び。地元長崎の人も寄ってきて、賑わいます。1年を通して長崎ならではの龍踊りを楽しめるのは、ここだけです。
(佐古)
丸山町(長崎警察署 丸山町交番)
丸山の門があったという場所にある丸山町交番。石造りにステンドグラス、こんなにレトロでおしゃれな交番は、なかなかないでしょう。ちょっと、入ってみたくなります。
(佐古)
新地町(長崎新地中華街)
中華街の4つの門は東西南北を正確に示す方角に位置し、門の裏には守り神(中国の四神)である東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武(亀と蛇)が彫られています。昭和61年完成。高さ9メートル。資材や屋根瓦は中国製です。
(佐古)
東山手一帯
ここ東山手一帯の通りは、石畳やレンガ塀と洋館群がエキゾチックな雰囲気を醸し出していて、長崎を代表する観光地となっています。長崎港の風景と一体となった様は、すばらしいの一言に尽きます。
(北大浦)
大浦町3丁目自治会オランダ通り
大浦町3丁目自治会の通りにあるオランダ通り(約300メ-トル)では、毎年30本の七夕に自治会、婦人部、子ども会、商店街が一緒になって飾り付けをします。雨が降った時などは、皆さんが気持よく、落ちた飾り付けの掃除や補充をしてくれ、親睦に大変役立っています。またオランダ通りには外国人が多く訪れ、カメラでパチパチと大変好評です。
(北大浦)
東山手町一帯(特に東山手町甲13番館付近)
観光名所としてすでに有名ですが、わが町自慢として挙げておきたいと思います。特に東山手甲13番館の下から登って、12番館の前に至り、活水大学の横の急坂までが、東山手が外国人居留地として開かれた頃の坂道が残っていて、当時の面影がしのばれます。
(北大浦)
出雲2丁目144-1他
鍋冠山からの眺望は、わがまちの自慢としてふさわしいと思います。公園内の展望台から一望する長崎港と長崎の町の眺めは、長崎のまちの特徴を一目で現しています。昼間の眺望は、まちの成り立ちを、また、夜の眺望は人々の暮らしをお思い起こさせるものとなっています。
(南大浦)
相生町
大浦に、世界広しといえどもココだけ?ではないかというありがたい所があります。神社とお寺と教会が共存している「祈りの三角地帯」。ここでお願い事をすれば、神様??が叶えてくれると言われています。長崎ならではの一押しスポットです。
(南大浦)
相生町、上田町
グラバー園へと続く、グラバースカイロード。斜行エレベーターは全国的にも珍しいようで、観光客の方も大変驚かれます。もちろん、地域の方々にとって利便性が高いことから、よく使われているようです。長崎ならではの、ハード整備としての貴重なものと考えます。
(南大浦)
南山手町13-38
レスナーは、ルーマニア生まれでオーストラリア国籍のユダヤ人。明治12年に長崎を訪れ、梅ヶ崎居留地の活水下の裏門一帯で貿易雑貨商、オークションなどを営み、莫大な財産を築きました。そして南山手町に美しい家を建てます。特に素晴らしいのは、玄関や廊下、暖炉脇に敷き詰められた花模様などのタイルの梅ヶ崎に建てられた教会で神父もつとめたといわれています。
(浪の平)
南山手12-17
マリア園は赤レンガ造りの建物です。北フランス風の建物で、こんなに美しい教会はヨーロッパにはないといわれ、今も居留地の面影を残す貴重な建物となっています。またマリア園横には長崎市都市景観賞に選ばれたドンドン坂があります。
(浪の平)
浪の平町7-19(南公民館併設つばき荘入口横)
浪の平小学校の前身は、明治11年(1878年)小曽根乾堂が私費で建てた小曽根小学校で、明治20年(1887年)校舎を新築して鎮鼎小学校と改称しました。そして背後の鍋冠山は別名鎮鼎山ともよばれました。この石は鍋冠山から転ってきたと言われています。昭和10年の浪の平小学校の卒業生が校庭の入口に記念碑として残したものです。現在つばき荘の横に嵩上げして眠っています。題字は小曽根星堂が書いたものです。
(浪の平)
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