ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

世界遺産

ページID:0027633 印刷ページ表示 更新日:2025年2月5日更新

 長崎は2つの世界遺産があるまち。1つは「明治日本の産業革命遺産」です。市内には造船、石炭産業に関する8つの構成資産があり、当時、西洋の知識と技術の導入の窓口だった長崎がその技術を受け入れながら国内への産業化を促したことが証明されたものです。そしてもう1つは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。市内には3つの構成資産があり、長崎と天草地方の潜伏キリシタンが、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながらひそかに信仰を続けてきた証となる遺産群になっています。

明治日本の産業革命遺産

端島炭坑

端島炭坑の画像1

 岩礁の周りを埋め立てて造られた人工の島。最盛期の1960年には約5,300人もの人が住み、当時、日本一の人口密度を誇っていました。島内には小中学校や病院に加え、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もあり、生活の全てを島内で賄うことができたそうです。主要エネルギーが石炭から石油へと移行したため1974年に閉山しましたが、今では多くのかたが上陸ツアーに参加しています。

 

小菅修船場跡

小菅船場跡の画像

 日本最初の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を整備した洋式スリップ・ドックで、国指定史跡です。以前は当時の船を乗せて引き揚げる滑り台があり、その形状がそろばん状に見えたため、通称「ソロバンドック」の名で親しまれました。現在は曳揚小屋や曳揚機械、軌道、石垣などが残っており、両岸の天草石の石垣の多くが当初のままで残っているなど、日本最初の洋式船架として大変貴重なものとなっています。

 

高島炭鉱 北渓井坑跡

高島炭鉱 北渓井坑跡の画像

 幕末の開港により蒸気船の燃料として石炭の需要が高まったことから、トーマス・ブレーク・グラバーと佐賀藩が共同で開発された北渓井抗。グラバーがイギリス人技師を招き、日本で始めての蒸気機関による立坑ができました。深さは43mもあり、1日に300トンを出炭したと言われています。

 

旧グラバー住宅

旧グラバー住宅の画像1

 スコットランド出身の商人トーマス・グラバーが親子二代に渡り暮らした住宅。現存する日本最古の木造洋風建築です。グラバー園内にあるこの建物は、グラバーが大きな松の木のすぐ横に建てたことから「IPPONMATSU」という愛称がつけられ、周囲からも「一本松邸」と呼ばれました。グラバーと息子の倉場富三郎夫妻が住んだ建物で、石畳に立つ木製の円柱や屋根には日本瓦など長崎独自の文化が育んだ建物となっています。

 

第三船渠

第三船渠の画像

 第三船渠は大型の船の建造や修理をするため、1901~1905年にかけて建設されました。完成までに5年を費やしましたが、当時としては東洋最大のドックでした。現在は主に船舶の修理に使用されていて、100年以上経った今でも現役の稼働施設で、建設当時の英国製電気モーターと排水ポンプが使用されています。

 ※三菱重工業長崎造船所内の施設ため一般非公開の場所です

 

ジャイアント・カンチレバークレーン

ジャイアント・カンチレバークレーンの画像

 導入してから100年以上経った今でも稼働している現役の施設「ジャイアント・カンチレバークレーン」。長崎港のすぐ側にあるこのクレーンは、電気モーターで動き、大型の船の重い装備品を吊り上げることができます。現在は蒸気タービンや船舶用プロペラなどを出荷する際に使われています。同型で現存しているものは世界でも少なく、現役で稼働している世界最古のものとして、世界的にも非常に価値のあるものとなっています。

 

旧木型場

旧木型場の画像

 長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、1985年10月に開設しました。史料館に利用されている赤レンガの建物は、鋳造用の木製鋳型を作る工場「木型場(きがたば)」として建設されたものです。館内はテーマ別に13コーナーに分けられ、1857年に長崎造船所前身の長崎溶鉄所の建設着工から現在までの歴史を伝える資料や写真など約900点を展示しています。

 ※現在は工事中で入館はできません

 

占勝閣

占勝閣の画像

 第三船渠を見下ろす丘の上に建てられた木造2階建ての洋館。三菱合資会社時代の1904年に長崎造船所長の邸宅として建てられましたが、所長宅としては使用されず迎賓館として使用されました。イギリス人が設計したこの建物は創建当時の姿のまま、現在も迎賓館として、船舶の命名式等の祝賀会や貴賓の接待等に使用されています。

 ※三菱重工業長崎造船所内の施設ため一般非公開の場所です。

 

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

外海の出津集落

外海の出津集落の画像1

 1571年にイエズス会宣教師が宣教を行い、キリスト教が伝わった外海地区。外海の出津集落は、潜伏キリシタンが聖画像をひそかに拝むことによって自らの信仰を隠しながらも信仰を続けた集落です。集落内には旧出津救助院やド・ロ神父記念館、キリスト教解禁後にカトリックへ復帰したかつての潜伏キリシタンが建てた出津教会堂があり、潜伏キリシタンの集落であった頃の様子がよく分かります。

 

外海の大野集落

外海の大野集落の画像1

 外海の大野集落は潜伏キリシタンが表向きは仏教徒となり、さらに集落内の神社の氏子となって、仏教や神道の信仰を装いながら、自らの信仰対象を神社にひそかにまつり、祈りの場として信仰を続けた集落です。集落内には、キリスト教解禁後は集落内の26戸の信者のために、出津教会堂の巡回教会として大野教会堂が建てられました。

 

大浦天主堂

大浦天主堂の画像

 日本の開国により来日した宣教師が1864年に建てた教会堂です。それまで仏教徒を装い、寺院に所属しながらキリシタンとしての祈りや儀式を守り続けていた潜伏キリシタンが2世紀ぶりに宣教師と出会った「信徒発見」の場所です。その後、大浦天主堂には長崎各地から潜伏キリシタンが訪れるようになり、禁教の中でひそかな布教活動が開始されました。その後、厳しい弾圧を経てキリシタン禁制が撤廃され、実質的にキリスト教の信仰が認められるようになりました。